読書で得ること

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 読書は、完全に自分と一致した人の意見を聞くためのものというよりは、「摩擦を力に変える」ことを練習するための行為だ。自分とは違う意見も溜めておくことができる。そうした容量の大きさが身についてくると、懐が深くパワーのある性が鍛えられていく。

ためらうことや溜めることを、効率が悪いこととして排除しようとする風潮が強まっている気がする。十代の後半などは、このためらい自体を雰囲気として味わうのがふさわしい時期であったのだが、現在は効率の良さを求めるあまり、ためらう=溜めることの意味が忘れられかけようとしている。本を読むという行為は、この「ためらう=溜める」という心の動きを技として身につけるためには、最良の方法だと思う。

 たしかに著者の意見や世界観にひたることは、読者の楽しみである。本は色々な種類のものがある。小説からエッセイ、新書や専門書まで様々だ。それぞれの本に色があり、それぞれに異なる世界が広がっている。書く人やテーマが異なれば全く異なるものになっているため、それぞれの世界観に浸ることは読書の楽しみである。私は、小説やエッセイが好きで、よく読む。小説は、登場人物の心情が丁寧に描かれていて、読んでいてワクワクする。エッセイも著者の価値観や考え方を知ることができるため好きである。それぞれ異なる世界観に浸ることで、今まで知ることがなかった新たな気づきを得ることができる。

しかし、偏った読書は、かえって思考の幅を狭めてしまう危険性がある。

人間興味のあることは偏りがちである。私も恋愛小説やエッセイなど読んでいて楽しいものが好きである。逆に経済や歴史書などは読んでいる時に頭を使うため、あまり自分から進んで読むことはない。しかしだからといって自分の好きな分野の本だけを読むということはあまりよろしくない。好きなことだけをしている生活は楽で好きなことだけして過ごせるのならば過ごしたいという人がほとんどなのではないか。しかし、皆好きなことだけではなく、嫌なこともして日々を過ごしている。その1つに勉強もあるのではないか。勉強が好きで進んで自分からするという人は少ないのだろう。しかし、ほとんどの人が勉強をしている。それは、社会に出て大人になるための教養を身につけておかなければならないからである。私は読書も勉強の1つなのではないかと考える。つまり、本を読むことで様々な価値観や視野を知ることができるのだ。1つの視野のみで物事を判断するのは危険である。すなわち、色々な視点から物事を捉えて考えることが重要なのだ。例えば、昔話に「さるかに合戦」という話がある。これは、ずる賢いサルに騙されたカニが、栗や臼、蜂などの仲間と協力してサルを懲らしめる話である。つまり、1人の力では難しいことも、さまざまな考えや力を持つ仲間が集まれば、正しい方向に進むことができるということが重要なのである。読書も同じで、さまざまな分野の本を読むことで、多様な考え方を知り、より広い視野で物事を捉えられるようになるのではないだろうか。

たしかに、読書は傾倒することの楽しみと危険性を併せもつ。「読書は完全な人間をつくる。」という名言もあるように大切なのは、自分の実体験や生活と読書を結びつけ、著者の意見を踏まえて自分で考える独自性のある意見に変える思考力を身につけることではないだろうか。