私は長いこと京都に(感)

    ()  年月日

 私は長いこと京都に住んで毎日のように道で僧侶と出会った。僧という身分であることほど怖いことはない。現代日本の僧侶は、ほとんど例外なく、職業人として僧職に就くことを他律的に条件づけられてそうなったという人びとが大半を占めるであろう。そして、自らを一個の人間に戻し、その裸身を改めて見つめ直すという宗教者としての基本的な心構えは、霧のように消えてゆくであろう。私はかつて旧制中学の教師だった時に身に沁みて体験した。長く教師をつとめたら、人間の成長は止まってしまうこと必定だと、私は思い知った。およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じることが必要であろう。自らを恥じるとは、自らを客観視する別の眼をもち得ることである。現在の環境に埋没することなく、つまり現在の職業や地位に腰を据えてしまうことなしに、自分の新たな可能性を絶えず開拓しようとする気魄をもち続けることが大切だ。およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じることが必要であろう。

 そのための方法は、第一に、自己満足に陥らないことだ。自己満足に陥るといつの間にか満足できないようになってしまう。つまり、現状の自分に満足せずに、さらなる高みへと進むように努力し続けることが大切だ。例えば、学校の中間テストで学年一位を獲得したとしよう。この結果は、自分が他の誰よりも優れているというのを証明している。ここでふたつの道に分かれると思う。一つ目の道は期末テストも学年一位を維持するために、気を抜かずに努力し続け期末テストでも良い結果を得ることができる道だ。もう一つの道は、自己満足に陥って勉強を怠り、友達とカラオケやゲームセンターに遊びに行ってしまい期末テストで悲惨な目にあうという道だ。学年一位を獲得したのは誇りに思っていいと思う。しかし一番重要なのはその後の切り替えだ。いつまでもその結果に満足せずに気持ちを初心に戻して挑戦することが大切ということだ。

 第二の方法としては、井の中の蛙にならないように、常に外部との交流を進めるような仕組みを組織の中に作ることだ。外部との交流を遮断すると外部からの情報が一切入ってこなくなる。つまり、周りの社会から取り残されているのと同然だ。歴史上の例では、鎖国時代の日本や清の国は、外国との貿易を遮断して我が国だけで政治や文化を発展させようとした。しかし、自分の国の中だけの序列を基準にし、世界の情勢を無視していたために、いざ開国した時にたち崩れてしまった。定期的に外部と交流することで成長することができる。

 確かに、人間には息抜きも必要だ。自分がありのままで認められているという感覚があればストレスにも耐えられる。しかし、人は今の自分に満足するために生きるのではなく、さらなる高みを目指すために生きているのである。だから、およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じることが必要であろう。