自然のぬくもり、人口の知恵
小6 あえさた(aesata)
2025年11月2日
ヒノキは、切られてから二、三百年の間は、強さや剛性がじわじわと増して二、三割も上昇し、その時期を過ぎた後、ゆるやかに下降する。その下がりカーブのところに法隆寺の柱が位置していて、新しい柱とほぼ同じくらいの強さになっている。つまり、木は切られた時に第一の生を断つが、建築の用材として使われると再び第二の生が始まって、その後、何百年もの長い歳月を生き続ける力をもっているのである。私たちは数量的に証明できるものにのみ真理があると信じすぎてきたが、木のような自然の素材には、科学では解明できない側面がある。
この長文を読んで、僕は「自然のもの」と「人工のもの」の関係について考えた。たとえば、手書きの文字と印刷された文字を比べると、どちらも同じ言葉を伝えることができるが、感じられる温かさは全くちがう。印刷の文字は整っていて読みやすいが、そこに人の息づかいはない。一方、手書きの文字には書いた人の心の動きや、迷い、優しさまでもがにじんでいるように思える。まっすぐではない線や、少し歪んだ形にこそ、人間らしさが宿るのだ。人工のものは、正確さと美しさを生み出す力をもっているが、自然のものは不完全だからこそ、より深い魅力をもっているのではないだろうか。
そこで僕は、父に「自然のものと人工のもの、どちらが良いと思う?」と聞いてみた。父はすぐに、「自然の方が良い」と言った。その理由をたずねると、「人工のものは便利だけど、自然のものは人間では作り出せないものがあるよね。」と言った。その言葉を聞いたとき、僕ははっとした。机で例えると、確かに人工素材のものは軽くて扱いやすいが、自然の木などでつくられた机には木目の一つひとつに命の跡があり、手を触れるたびにぬくもりを感じる。人工のものが“機能の便利さ”をもっているのに対し、自然のものは“心を動かす力”をもっているのだと思った。父の言葉を通して、僕は人の心が求むべきものは完璧さではなく、生命を感じる温かさなのだと気づいた。
僕にとって、自然とはただ利用する対象ではなく、共に呼吸し、生きる相手のような存在だと思う。自然は人間よりもはるかに長い時間を生き、その中で僕たちに「待つこと」や「受け入れること」の大切さを教えてくれる。一方、人工のものは人間が知恵を働かせて作り出したもので、生活を支える便利な道具である。どちらが優れているというわけではなく、互いに補い合う関係にあるはずだ。僕たちは自然の中に人間の知恵を見つけ、人工の中に自然の原理を生かしていくことで、はじめて豊かな暮らしを築けるのだと思う。
人間にとって自然とは、ただ生きるための背景ではなく、心を育て、感性を磨かせてくれる存在である。自然の中には、人間の力では生み出せない時間の流れや、ゆるやかな生命の循環がある。僕たちはその中で生かされているということを忘れずに、便利さの中にも自然の知恵を見いだしていかなければならない。「急がば回れ」ということわざがあるように、自然のリズムに沿ってゆっくりと生きる姿勢こそ、これからの時代をより豊かに生きるために、最も大切なことだと思う。