労働観

   高2 ばにら(tokunaga)  2025年11月1日

ドイツやフランスなどの欧州諸国家の特徴として、社会資本の充実が挙げられる。例えば、公営バスや電車は深夜まで走っているし、長い距離の移動も安く済むように設計されている。労働時間を見ても、日本よりは大分短い。これらは「労働よりも文化生活」という労働者の訴えによって、徐々に整備されたものだ。対して、日本の労働観は全く逆に見える。毎日夜遅く帰っては夕飯を一人で食べる父親や、徹夜して働く繁忙期の社員の姿が、時に賞賛される事さえある。決して高くはない給料のために、人々は私生活を犠牲にしてまで毎日遅くまで働き詰めるのだ。しかし、日本社会のこのような労働観は、「労働よりも私生活」という現代的潮流からは逸脱しているように思える。では、なぜ日本社会はこのような労働観を保持しているのだろうか。この疑問について、以下に二つ考証したい。

第一の原因として、日本における労働者の権利意識の不足が挙げられる。企業が従業員を酷使しても、それに対して労働者が企業に反抗する文化が無いのだ。実際に欧州の先進国を見てみると、労働権に対する意識の差は歴然だ。例えば、フランスに住んでいると、しょっちゅうデモやストライキを目にする。その中でも、最も大きな規模にまで発展するのは労働問題に関するデモだ。特に、2023年の年金受給年齢引き上げの抗議は記憶に新しい。その時期は、毎日のようにデモ隊が通りを行進しており、公共交通機関は停止し、学校の授業もままならなかった。警察が介入したためか、下校道に催涙ガスが撒かれていて、学校から涙目で帰宅したことも思い出深い。このように、労働者の権利を侵害する、と見做されるものに対して、フランス人は徹底的に反抗するのだ。このような意識だからこそ、過去数十年でフランスの労働者の権利は強固なものとなり、法整備も進んだ。だからこそ、企業側も労働者を好きには扱えなくなったのである。しかし、日本の労働者の場合、自らの権利をそもそも自覚しない場合が多い。「社畜」という言葉通り、自身が会社よりも劣等と見做す人がほとんどではないか。確かに、「権利を主張する」という行為自体は日本人の感覚からして異質なものだ。しかし、憲法でさえ認めるこの権利を自ら規制することこそが、欧州人からすると異質だと言える。

第二の原因として、日本が旧来の環節的社会の名残を保ち続けていることも考察できる。環節的社会とは、職業の多様性が少ない環境における、個人が集団に従属するような社会体系だ。皆同じような労働に従事し、似通った経験を共有することによって、個人の区別がつきにくくなる。社会学者のポール・デュルケイムの「社会分業論」によると、このような社会が工業化、都市化を経ると、労働の細分化が行われるとした。すると、各人の個性が強まり、個人同士が依存し合う形の近代的な「有機的社会」へと移行することとなる。

現代日本も、上記の定義から当てはめれば、「有機的社会」ということになる。しかし、特異的なのは、個人が社会に従属する価値観が根強く残っていることだ。この現象の一旦として、ジェネラリスト育成の方針が関与しているのではないか。日本においては、学業または会社の業務を、広く浅く一通りこなせる人材が育てられる傾向があるように見られる。事実、学校受験も国公立の場合は多くの教科が問われるし、社会人になっても「サラリーマン」の一言で様々な業務を括られる。すると、多くの人が似た人生を歩むことになり、個人の差別化はなされずらい。その結果として、一個人単位の希少価値は下がるし、「代えのきく駒」として企業に奉仕する、という構図が成立しやすくなるのではないか。日本は高度経済成長の時期、あるいはもっと遡って明治維新の時代に、最大効率で社会を発展させるために、国民全体の能力向上を図った。企業も各個人に合った業務を与える余裕はなく、成長のためには同じような人材を一斉に動かすことが最適解だったのだ。故に、このようなジェネラリスト重視の姿勢が残っているからこそ、近代化された環境にも関わらず、日本における「職業の細分化」が他の先進国よりも見えづらいのではないか。ゆえに、近代的な「有機社会」であるにも関わらず、人々と社会の関係性が「環節的社会」のそれと似たものであり続けていると推察する。このギャップこそが、現代日本社会の「歪み」として発露しているのではないか。

日本社会における労働観は、個人の差別化がなされないことによる労働者の希少価値の低下、それに伴う権利認識の不足に起因することを分析した。確かに、権利ばかりを主張しているように見える欧州の労働者に比べると、日本人の勤労さは美徳のように感じられる。しかし、「過労死」は日本語にしか存在しない言葉である。労働とは人生を豊かにするための手段であって、それに殺されてしまっては本末転倒だ。「仕事は人生」という人はいても、「人生は仕事」という価値観は強制されるべきではない。むしろ、各個人が人間的な生活をする余裕を持つことが、豊かな社会の形成につながるのではないか。このことからも、労働と個人の関係の再定義が、現代日本の大きな課題であることは明白である。