「真似」の重要性
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1960年代の日本の工業製品は、まだ性能的にも機能的にもかなりお粗末で、欧米に対抗できるのは価格だけと言われていた。それが今では驚異のキャッチアップ力により、今では日本製品は、性能の良さ、信頼性の高さの代名詞にさえなっている。このキャッチアップの速さは戦後の製造業に限らず、奈良の大仏や戦国時代の鉄砲にもみられる。しかし現代の日本人は、この驚異的な速さのキャッチアップ力に誇りを持っていない。欧米から「もの真似上手」という批判を浴び続けていたからである。しかし、日本の歴史を紐解くと、学ぶことは徹底して真似ること、そしてこの姿勢が独創性を発揮する大前提だとわかってくる。そのため日本人が「もの真似上手」と言われることに過度にコンプレックスを抱く必要はないのだ。僕は、模倣できる能力に自信をもって生きて行きたい。
その方法は第一に、模倣をためらわないことだ。新しいことに挑戦するときは、まず模倣から始める人が大多数だろう。実際僕も、木刀と竹の弓を作った時にこの経験をした。どちらも、かっこいいものや矢がよく飛ぶものを作りたかったが、僕は刀と弓の制作経験が少なかった。そのため、ネットで実際の作り方やサイズを調べたうえで制作を行った。おかげで、独創的ではないかもしれないが、かなり満足のいくものを作れた。模倣は、今までの人類が培ってきたことを取り入れることなのだ。
その方法は第二に、学校で「模倣」ばかりを教えないことだ。芸事でも言われるように、最初の模倣から独創へつながっていく。しかし、多くの学校では、一つの答えがあり、それを模倣、コピーする事ばかりに焦点が向いているように感じる。現在の学力重視の入試もこのことを加速させている。模倣も大事だが、それが原因で次の独創の段階へつなぐ機会が少なくなっているのではないか。学校などの場で、すこしでも独創へつなぐことができたのなら、模倣の段階にコンプレックスを抱かなくて済むのではないだろうか。
確かに、模倣だけで終わってしまっては進歩がない。しかし、模倣は創造の基盤の段階だ。模倣を一切行わないで完全独学で始めることは、それゆえの学びも多々あるだろうが、まずは先人たちの積み重ねを学んでいった方が効率的だろう。模倣という基盤があってこそ、その上の独創はより洗練されたものになっていくのだ。「経験は最良の教師である」という名言のように、まずは先人たちの積み重ねを疑似体験してみるべきなのではないだろうか。そして、そんな疑似体験にコンプレックスを抱く必要なんか一切ないのではないだろうか。だから僕は、模倣できる能力に自信そもって生きて行きたい。