「私たちが日常」感想文

   中1 あさくに(asakuni)  2025年11月2日

 要約:実に素晴らしき作文「私たちが日常」。ここまで僕の心をつかむ要素は筆者の着眼点の良さにある。人々は日常会話で言葉の一つ一つをそこまで注意せず、「何か透明に」なってしまっていると主張している。そして読者にとっても非常に理解のしやすい、谷川俊太郎作の「かっぱ」を取り上げた。そしてこの詩の中では「かっぱ」という言葉に語源かつ語形が似ている単語が多数混じっていて、読むのが困難になるという。そして終わり方も非常にスムーズに、「詩人の言葉使いは日常的なことばでは不十分でどうしても日常的な言葉の使い方の枠を越えなくてはならない」と述べて、のど越しの良い麦茶を飲んでいるかのように爽快に終わった。

私は詩的な言葉も人々の日常の中で必要性があると思う。まず最初に、個人個人の世界観を拡大させてくれるからだ。よく詩的な言葉を使うときは自然界のことなど、普段想像もしない壮大なスケールの物を言葉にすることが多い。こうした考えや自然と向き合い、触れてみることで、考えることが増え、視野が大幅に拡大されているのだろう。同じく谷川俊太郎の「朝のリレー」で考えてみてみよう。人々が日の下で遊んでいるとき、世界のどこかでは誰かが真っ暗の夜の中ですやすやと寝ている。そして、交互に人々は「朝のバトン」を渡してゆき、この地球を監視し、守っているという、実に谷川俊太郎の世界観、「谷川ワールド」が作り出した最高傑作の一つだ。この詩を通して世界に再び目をやると、非常に「朝」の訪れが平和で神秘的なものと実感するだろう。だが、少し着目のアングルを変えると、今この瞬間にもウクライナで爆弾に巻き込まれ命耐える市民やパレスチナで飢えに苦しむ子供たちもいる。こうして考えたら、今我々の暮らしている身の回りの環境はなんと恵まれ、素晴らしいものだとわかるであろう。

二つ目に詩的な言葉を使うことで、「自分」と向き合え、アイデンティティーがよりはっきりできることだと思う。再び谷川俊太郎の詩を例として使うが、「二億光年の孤独」を手に取ってみてみよう。この詩は火星人が地球にいる仲間を欲しがり、地球人が火星にいる仲間を欲しがるが、間には二億光年の距離があり皆孤独だ、というなんともファンタジックかつ現実的な内容だ。この詩を初めて目にしたとき、個人的には宇宙の膨大さと自分の存在を対比してしまい、「自分とはなんだ」と何とも哲学的な疑問に行きついてしまったのだ。その疑問に答えようと考えに考え付いた結果が、「自分とは奇跡的に地球の星に日本人として生まれた人類の一人である」という考えだ。それでもまだ深堀したかった私は今度は「何のために人間は生きているのだろう」と二つ目の問いを立ててみた。最終的に行きついた自分なりの答えは「全人間の人生の目標とは自分の夢をかなえることであり、僕の場合は自分が母国である日本の役に立つ夢を実現するために生きている」というものだ。このように、詩的な言葉を活用した詩を読んで心から理解し自分と比較で、個人のアイデンティティーを固定し、「自分」を理解する動力源になるのだ。

このように詩的な言葉が日常生活にあることで世界観の拡大や自己同一性が強くなるのだと思う。アイルランドの詩人、オスカー・ワイルドはかつてこう言った。「自分を愛するのは一生の愛の始まり」だと。これは僕の理由の二つ目に挙げた、「アイデンティティーの強化 」と同じような意味合いだと僕は解釈した。詩人のワイルドさんは僕と同じように物事に深く考え続け、このような意見にたどり着いたのだあろう。確かに

事実をありのままに伝える言葉も必要だ。ただあまりにも日常会話や生活の中で使用回数が増えてしまったら、どうしてもいろんな意味で視野が狭くなる一方で世界の全体図が把握できない一方である。これは詩的な言葉でも同様だ。あまりにも使いすぎると現実味が薄れ、夢の中の世界を話しているかのようにあまり相手に理解してもらえないかもしれない。お互い程よい数で構成された詩などのものが調和されてバランスされるのだと思う。たくさんのベネフィットを与えてくれる詩的言葉。皆様のちょっと試しに使用してみてはいかがでしょうか。

参考:谷川俊太郎作 「朝のリレー」「二十億光年の孤独」