里山の生存

   小6 あこまき(akomaki)  2025年11月3日

 桃太郎という物語は年寄りがすぐ行けるような身近なところに薪取りのできる柱があったり、家のすぐそばには洗濯の出来るのできるきれいな小川が流れていたりといった素朴な集落の光景は日本人にとって一つの原風景と言っても良いだろう。人間の身近にあって生活の様々な面で利用されるような森林を日本人は里山と呼んできた。この里山の特色は、人間によって極めて高い集約的に利用されながら、決して消滅することなく、長く維持されてきたこにある。この国では長い間、農耕力の刈り取りと里山から摘み取りによって人々の生活が成り立ってきたのである。こうした里山への働きかけの底流には、自然への畏敬があったのだ。

 私は何度か里山の手入れを手伝ったことがある。よくやるのは草刈りだ。背丈よりも高い草を草刈機という重たい機械で切っていくのである。体の重心を移動し次から次にと草木が倒れてゆく。汗が手に滲み出る。とても重い。しかし、休憩がかかり空を見上げた時にはたまらないのだ。あんだけ背が高かった草も床にへばりこんでおり、隠れていた景色が一斉に見える。野原の先は木や山、花畑といった光景が広がっている。虫たちが掘り返された地面から這い上がってまた戻ってゆく。空気がおいしく、何かざらざらしていた心も洗い流されてしまいそうなぐらいだ。千里の道も一歩から。どのようなことも身近な手入れからでも始めてゆくのが良いのである。

 伐採をすることで森を明るくすることができると崎野隆一郎は言っていた。針葉樹は松など、背が高い木が多い。そのような木が増えてしまうと、影ができてしまい、下からみると暗い世界になってしまう。すると、クヌギやナラなどといった広葉樹、背の低い木々が育たなくなってしまう。そうして栄養をもらった針葉樹が成長してしまうといった不の連鎖が起こってしまう。そこで人間たちが山に入り、成長し過ぎてしまった木々を伐採し、森に成長の光を地面に入れるのである。自然を管理するということは大変なことであると思う。人間たちがこの手で手入れをしてゆかないと自然というものであったり、生物、もしかしたら私たちまで絶滅という危機におちいってしまうのではないのだろうか。だからこそ今後とも里山を手入れして光を入れて行ったほうが良いと思う。

 人間にとって自然を守る、手入れするということは人間であったり里山を生存させてゆくことである。伐採、草刈りであったりさまざまなことをして里山に緑を入れてゆくことで明日に動物や植物の何かの生きていることにつながるのではないのだろうか。もし、人の手入れが行き届かなくなってしまうと、暗闇の世界になり一つ一つ静かに命が消えてしまいそうになってゆくのだと思う。これは他人事という問題ではない。だからこそ里山や生き物を生存させてゆくために小さな行いをしてみてはどうだろうか。一つ一つという行いが合わさってゆき、命というものを今日も支え合っている。