慎重居士

   小6 よしたか(yositaka)  2025年11月3日

  私たちの生活は、便利さを追い求め続けることで格段に向上してきた。しかし、その裏で自然環境は静かに、しかし確実に失われつつある。人間は自然の恵みから多くを受け取っているにもかかわらず、時としてその存在を疎ましく扱い、自らの利益を優先してしまう。自然とともに暮らしているという事実を忘れ、無意識のうちに自然を傷つけていることに、私自身は強い危機感を覚えている。

 僕がインドネシアを訪れたとき、その思いはより鮮明になった。車で移動中、窓の外に広がる光景に息をのんだ。かつて森であったであろう一帯は、無造作に伐採され、茶色い土がむき出しになっていた。まるで自然の息遣いを奪われたかのように、残されているのはか細い雑草が数本揺れているだけの、広大なのに空虚な空き地であった。その光景は、自然が人の都合で容赦なく姿を変えさせられているという現実を突きつけ、胸に深く刺さった。緑が失われた土地は、どれほどの時間をかければ再び生命力を取り戻せるのだろうか。人間の行為が一度自然を壊してしまうと、それを元に戻すには計り知れないほどの努力と時間が必要になるのだと痛感した。

 自然を軽視した結果が、災害として跳ね返ってくることもある。母が高校生だった頃、豪雨が続いたある夏の日、家の前の山で起きた出来事はその典型例である。山の上には伐採された木が大量に積み上げられていた。連日の雨で地盤が緩み、ついに土砂崩れが発生し、濁流とともに丸太が音を立てて住宅地へ押し寄せてきたという。水に乗った丸太は想像を超える速さで流れ込み、その迫力に誰もが恐怖を感じたそうだ。しかし、本当に大変だったのは水が引いた後である。濡れて重くなった丸太を撤去する作業は人力ではどうにもならず、自然の力がいかに強大で、人間の制御を簡単に超えてしまう存在であるかを思い知らされたと母は語っていた。自然への配慮を欠く行為は、巡り巡って人間自身に被害をもたらすのだ。

 一方で、環境によいとされる取り組みが、別の形で自然破壊を生み出してしまう場合もある。たとえば近年普及している太陽光発電は、再生可能エネルギーとして注目されているが、そのパネルを設置するために広大な森林が伐採されている現状がある。環境を守るための方法が、結果として別の自然破壊を招いているという矛盾は、まさに本末転倒である。本当に人間は自然と向き合う覚悟を持っているのか、改めて問われているように感じる。

 人間にとって自然とは、単なる背景や資源にとどまるものではない。空気や水の循環、季節の変化がもたらす豊かさ、そして生命の連なりといった、私たちが生きるうえで欠かせない存在である。自然は人間が利用するためだけにあるわけではなく、長い時間をかけて築かれてきた世界そのものなのだ。人間はその中の一部にすぎず、自然に対して謙虚であるべきである。私たちが自然を傷つけ続ければ、最終的に困難に直面するのは私たち自身であることを忘れてはならない。だからこそ、自然と人間が調和しながら生きていく未来を目指し、共存共栄の精神を胸に、慎重居士のように一つ一つの選択を丁寧に考えていく必要がある。自然を大切にする姿勢こそが、人間の未来を守る唯一の道であると強く感じている。