昔話から学ぶ生き方

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 昔話は、そこに隠された民衆の知恵を感じることができ、現代に生きるわれわれに対して思いがけない示唆を与えてくれる。「うばすて山」という話では、思考の逆転の必要性や、価値とは何かについて教えてくれ、「貧乏神」という話では、思い切りの大切さや、貧乏でもよいという諦観を感じさせる。また、「貧乏神」の話のように類話がたくさんあるものからは、一つの方法に縛られず、人によってさまざまな生き方があり、人生の問題の解決策の多様性を語りかけてくる。このように昔話を読むことは、現代のわれわれの生き方と直接につながてくるのである。僕は、昔から伝わっていることから、生き方を学んでいきたい。

 その方法は第一に、それらを「古臭い」と一蹴せずに、そこから真摯に学び取る姿勢を身に着けることだ。僕らは何かを見聞きしたとき、レッテルを貼って分かった気になったり遠ざけたりしてしまいがちだ。昔ながらのことの場合「古臭い」というレッテルが多いと感じる。僕らには、どのようなことでも学べることがあると思い、そこから真摯に学び取る姿勢が必要なのではないか。実際、僕は志望校のサマースクールでこの経験がある。そのサマースクールでは、最終的にピッチ(短いプレゼン)をするのだが、ピッチ練習のために、その学校の学生にフィードバックをもらったときのことだ。そのフィードバックは、一見、考えが食い違うようなことがあったが、とりあえずメモしておき後で見返して考えてみると、「確かにこの意見も役に立つ!」と思ったことがあった。このような姿勢が、全ての学びに必要なのではないか。

 その方法は第二に、学校でも、生き方を学ぶ場面を増やすことだ。学校での授業は、「受験」や「技術を身に着ける」ために学ぶことが大半だ。哲学や生き方を学び考える機会をもっと増やしてみてもよいはずだ。

 確かに、現代の最新の技術を手に入れることは大切だ。しかしそれだけでは、その能力をどう生かすか、がわからない。それは、哲学や芸術、宗教の領域だからだ。そしてそれらは、最新の知識より、昔から伝わってきている伝記や本からの方が学べることが多い。アインシュタインの、「科学なき宗教(哲学)は盲目であり、宗教(哲学)なき科学は不完全である」という名言のように、能力と生き方は、単独では意味をなさず、両方あってこそ真価を発揮するのだ。だから僕は、昔から伝わっていることから、生き方を学んでいきたい。