常に流行りのもとは古典にある

   中2 あかるら(akarura)  2025年11月3日

 古典とは、永遠に新しいものである。確かに時代の流行を代表する作品には風俗の親近感や精神構造を持っている。しかし時代の変化に応じてその多くは消えてしまう。人間とは矛盾した感性を抱き合わせに持っている複雑な生き物だ。古典とはその最も人間的なものをその時代の具体的な素材を用いて抽象の中に表現しうるものである。

 確かに古典が長い間愛され続けてきたのは、それたけの魅力があるからだ。味のあるものは時間が立つほど心を惹きつけるものである。本でいう古典もそうだが、音楽もまた同様だと考える。音楽における古典はやはりクラシックだろう。私は今音楽の授業でクラシックの楽曲を学習している。一言で「クラシック」と言ってもスタイルや曲調は様々である。その長年愛されている理由は、子供も大人も楽しめ、永遠に耳に残るメロディーだと考える。有名な一節を聞けば、誰でもどの曲か分かることもそのためではないか。しかし、過去の音楽家たちは長い目で、つまり未来の私達の好みを見通して一曲一曲を製作していたわけではない。授業で学んだことだがベートーヴェンのように、当時の人々の耳に心地良い一曲、つまり流行する楽曲を世に出し、音楽家として生きていくためにあの手この手で製作していた人もいたようだ。しかしその一つ一つ次第に受け入れられ、形を変えなからも聴衆の心を打ち続けてきたことに「古典」としての感動が出ているのだろう。そして今に繋がり、新たな流行を支える土台となっている。現代の流行音楽でも既存のクラシック音楽の一部が含まれているものも多い。社会の流れが加速しているからこそ、いつの時代でも廃れず人を魅了し続けるクラシックは、それだけの価値があるのではないか。

 

 一方、流行のものは多くの人々の心を惹きつけ、楽しませる。音楽も同じだ。新しく発表された楽曲が流行し話題になるのは、それがその時代ならではの歌詞や使う楽器、リズム感に共感が集まり、クラシックとは異なった視点から人々を掴むからだ。有名な昔話でも同じことが言える。「わらしべ長者」はある貧しい男が神に従って藁にくくりつけた蜂を持ち歩いたことをきっかけに多くの人々との交流と運気によって次第に裕福になっていく物語だ。一つの小さなものから持ち物を介した交流が誕生し、その男が幸福な結果に至った背景には、男が持っていた物への興味、つまり流行があったと言えるだろう。その連鎖が結果へと繋がってゆくのだ。確かに流行に注意し過ぎるあまり目的や手段を選ばなくなるなど流され過きることには意味がない。中国のニュースで見たことだが、一時期の流行商品を販売していた店にその関心から多くの人が殺到し、商品を奪い合うことで事件や事故へと発展してしまったそうだ。しかし、私たちは流行と付き合う上でのバランスを考えることで、古いものを参考に少し先の未来を想像しながら「流行」を作り出し、進歩することができるのではないか。

 確かに古典にも流行のものにもそれぞれ良さがある。しかし最も大切なことは、古典、流行に関係なく感受性豊かな時期に多くの物事に接し自分自身を磨いていくことである。「何よりも大切にすべきは、若いうちに、心に深く刻み込まれた印象である。」という言葉がある。特に思春期は多くのことに触れ、感じ、学ぶ最後のチャンスの期間である。私も分野や得意苦手に囚われず、次々に新しいことに挑戦し、未来の自分へ繋げていきたい。