「ああすれば、こうなる」感想文(清書)
中1 あさくに(asakuni)
2025年11月4日
なんと神秘的なのでしょう、「ああすれば、こうなる」の作文は。全体的な内容としては現在の社会では「ああすれば、こうする」のシステムが馴染み、人々の血となり肉となりすぎているというものだ。長文で紹介された例は、保護者がわが子の幼稚園、小学校、中学校、高校、そしてどの大学のどの学部に入るかをすべて前々から予定し、子供自身が考え、決断する前に人生の「レール」を敷くというものだ。このような現象が最近見られるので名誉、富、力、そして知識もない子供たちに唯一ある「真の未来」を奪っている現状に陥ってるそうだ。作文の後半では物語、「モモ」の内容と紐づけて、自然には「ああしたらこうなる」の現象がないと指摘した。人間にはいつ病気にかかり、いつ命立つ日が来るとは初期設定されていない。けれども、人間社会内で、最近は「ああすれば、こうなる」の思想がジワジワと広がっているのだそう。
私は、未来のために生きるのではなく、今この瞬間を大切に生きることが大切だと思う。なぜかというと今を生きることで、未知の才能を発見したり、貴重な経験を積んだりできるからである。もし将来のことばかりを重視して、いつも家にこもりっぱなしで受験勉強をしていたら、友達との「友情」を犠牲にしている可能性もある。私も実はこのような事例の経験者の一人だ。二年前の夏、日本に一時帰国し、幼稚園の時の友達と会おうとしたが、その方は受験勉強の真っただ中で私との再会はかなわなかった。悲しいことに、それ以来私は友人に会うことはできず、最近では「会いに行こう」という意思も薄れてきたと思う。これはまさに「未来のことを重要視し、友との友情を危険にさらした」例の一つだろう。ちなみに、友人は第一志望の中学に通ったそうだが、私に「会いたい」という言葉はまだ喉を通っていない。このような状況はスポーツなどをはじめとする、言わば「習い事」もそうなのではないか。貴重な放課後の自由時間を投資し、スポーツなどをして「今」の若くて柔軟な体を満喫しているのではないか。この現象は野球でいう犠牲フライに似ていると思う。打者は自分の時間をフルスイングで飛ばし、ワンアウトをとられながらも、チームの勝利につながる貴重な一点をとることができる。そしてその習い事を通じて新たな才能が開花または発見されるかもしれない。
二つ目の理由としてあげたいのが今の時間を大切にすべきということだ。「今」というのも人それぞれだが、未来の自分よりも現在の自分の方が若く、比較的すべての肉体的能力がより正常に動いていることが共通点だ。例えばこれを「子供」で考えてみてはどうだ。ほとんどの子供はまだ未熟で大人に比べ責任感が少なく、自由気ままだ。他にも、家族と一番過ごせる期間だろう。このような時期にひたすら他者との関係を遮断し、勉強漬けの毎日を過ごしていたら、得られるはずのものを意図的に放棄しているかのようで目の当たりにすると切なくなる。さらに驚くべきなのが、栄光ゼミナール公式サイトによると中学受験時の生徒の勉強時間が平日に約4時間、週末に約9時間も勉強しているというのだ。平日の勉強時間で考えてみますと、放課後の3から5時間を勉強に費やし、8から10時ぐらいに勉強が終了してから家に帰り始める計算となります。これほどの時間勉強していたら、結果もついてきて成果もあるが、子供時代の20年をこのように使いたいだろうか。余談だが、年齢9歳ぐらいが20年の子供期間で一番楽しいという諸説がある。このような時期でも受験勉強を始めている生徒もいると考えると、「なんと絶好のチャンスを捨てているのか」と思い悲しくなる。
自分のポテンシャルの自覚、未知の経験を積む、そして今の自分を楽しむという要素があるからこそ私は今この瞬間を大切に生きるのが大切だと思う。アメリカの作家、デール・カーネギーは過去にこういう言葉を残した。「人生とは今日一日一日のことである」と。これは私のあげた二つ目の理由と似ていて、「今の時間を楽しむため、生きるために人生はある」と個人的に解釈した。確かに未来のために生きることも大切だ。未来の自分に近づくために計画的に進歩できるという利点がある。だが、それは今日を生き、自分のポテンシャルや才能を自覚し、理解したことで起きる第二段階であるのではないか。今を生きながら未来に目を配るのは良いが、最初から未来のことばかりを考え「今」に目を向けなかったらただの妄想に過ぎないのであろう。たくさんのルートのある人生、あなたはどう生きていきたいですか。