自然と変化
小6 はる(akiiko)
2025年11月4日
自然と変化
おとぎ話「桃太郎」は、「ある日おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。」という語り出しから始まっている。年寄りが行けるような身近な所に、薪取りのできる林があり、また家のすぐそばに洗濯のできる綺麗な小川が流れているといった、この素朴な集落の光景は、日本人にとっての一つの原風景といっても良いだろう。集落を囲む里山の一角に必ずある、鎮守の森というものがある。鎮守の森は、村人の信仰の場であると同時に、里山のなかに巧みに織り込まれた、今でいえば保存林に当たる聖域でもあった。集落一帯の環境保全の急所ともいえる場所に、鎮守の森が配置されていたことが、今では知られている。
「ザッバーン。」
海に飛び込むという行為は、普通の生活ではほぼ起こらない。だが、私はその経験をしたことがある。その日、私はある事実を目の当たりにした。自然は、人工では作り出せないほどの力を持っている、ということを。
四方八方、どこを見ても鮮やかな青色の場所。それは海だ。人一人の力では、海全体を動かすことはできず、動くならばバシャバシャと海面が暴れるだけ。なのに波はずっと動き続ける。なぜ人の力が加わってないのに、あんなに大量の波を動かせるのだろうか。もし、
「波が綺麗に動くように、我々工場員たちは、工夫しています。世界の中の十パーセントの電力を使い、海の中に巨大な機械がーーー、、、、」
という説明を有名な発明家、または学者がするのであればまだ納得がいくが、これが全て自然の力で動いているのだ。だからこの疑問は解決されない。そんなことを考えていると、
「バッシャーン。」
顔に、海水がかかってきた。というよりも「かけられた」と言った方が正しいだろう。そのくらい、からかっているようにかかった。海の動きはどこか少し遊びが心がある。同じ動きは全くしない。人の動きと同じように。この時、私はこの考えに辿り着いた。自然は、人工では作り出せない力を持っていると言う考えに。
私と最も身近な自然は、家の前、ベランダから数メートルほど離れている所にある巨大な木だ。木だから、春夏秋冬、それぞれ見せる姿が違う。私は今の家に来て十年と少しのため、「10×4」で、四十回以上も変化を見てきている。春には少しずつ青い葉が生えてきて、夏には一面緑になり、秋にはだんだんと茶色に染まり、冬には黒いみきと枝だけが残る。この一つ一つの変化が過ぎていくたびに、私はとてもしみじみする。変わることは別に悪く思わないが、長くそのものに馴染んでしまうと、変化を目の当たりにするのが嫌で、目を背けたくなる。だが、この世は不安にも満ちていて、その不安が挑戦にもつながっていく。だから、必ずとは言わないが、できる限り受け入れなければならない。
私の父が広島県尾道市出身で、実家から海がとても近い。だから私は
「海に関係する自然の驚いた話を教えて。」
と聞いた。すると、自然現象の「大潮」について教えてもらった。大潮とは、年に何回か海面が物凄く高くなる時の事だ。大潮が台風と重なると、陸に溢れることもあるらしい。しかも大潮の時の海面が年々高くなっているらしい。この前、父が帰省した時と大潮が重なり、桟橋という船に乗るときに渡る海面に浮いている橋が、陸よりも高くなっていて驚いたそうだ。確かに、海面が高くなっていると私も落ちそうでとても怖くなる。
「江南の橘、江北に生ずれば枳となる」ということわざがあるように、人間にとって自然とは、その時々に変化し、人間にも沢山の影響を与えるものである。だからこそ、ちゃんと対等に自然に向き合っていかなければならない。私も、今からできることを探し、色々試してみる。自然と変化に。