冬のトマト(清書)

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  フィンランドの保健担当機関が15年間ある調査を実施した。600人で構成されている、検診や調査などを受けてもらうA集団、何の健康管理も実施されないB集団とで比較すると、A集団はB集団に比べ病の罹患者数が少なかった。驚いた医師達がさらに調査をすると、治療上の過保護と管理が抵抗力の低下をもたらすという結論だった。これは子供たちの育て方や教育の在り方にも通じる話である。本来、動物の子供と同じで、成長するに従い、本能との相談によって行動を決定することを覚えるのだが、そういう場がめっきり減った。一人一人が動物としての感覚を持ち続け、磨きながら成長するために、手や頭を使い、道具を作って使うような遊びをたっぷりと行うことが必要である。

 過保護や管理は良くない。英国で、2007年から2018年の間に、同国在住の65~79歳の人たちのデータを解析し、2023年に発表された研究がある。養老のスタイルを親のケア、親の過保護などで分析し、そうであればあるほど、質の低いものとする。すると、最も養老スタイルの質が低いとされた四分位に属する人は、最良の四分位と比べて死亡リスクが約49%高いという結果が出た。さらに、同じ英国のデータから、父親が過保護でありかつ、子供に自立性を与えなかった場合、男性で12%、女性で22%の割合で、80歳未満で死亡するリスクが高くなるという数値も示されている。私には兄と弟の二人の兄弟がいる。兄のみのとき、親は過保護気味であったらしい。少しでも泣くと駆けつけ、あやすということをしていたそうだ。その後、私が生まれ、弟が生まれたが、段々と過保護ではなくなっていった。特に弟はそうだった。そのせいか、今の弟は幼いながらも自主的に行動するようなことが多い気がする。

 しかし、子どもなどに対する保護や管理も必要だ。グリム童話には、赤ずきんという話が収録されている。作中冒頭、母親は寄り道をせず、道草を食わず、おばあさんの家にまっすぐ向かえと指示する。しかし、赤ずきんがそれを破ったところ、狼に騙されてしまうという話だ。基本的に、子どもは大人と比べ、全ての物事に対して経験が浅い。その、子どものような存在には、保護的な管理や規則を作ることによってその安全を守るなど、その人のためになることができるのだ。私は、携帯電話というものをいまだに持っていない。しかし、だからといって日常生活で不自由する場面もそう多くはない。逆に、それがないからこそ、庭で野菜を栽培したり、工作をしたり、部活に精をだすなど、今でなければ難しいようなことを、携帯電話をもっていないからこそやりやすくなっていると感じる。

 確かに過保護や管理はよくないが、最低限ながらでも保護、管理は必要だ。間をとって最低限の保護や管理が必要である、ということも理に適っているとは思うが、しかし「幼児教育の父」とも呼ばれるフリードリヒ・フレーベルは「子どもは温室ではなく、野原で育つ花である。」といった。旬でない作物を育てる、例えばトマトを冬に育てる、といった場合は温室などの環境を調整する設備を使う必要がある。自然の厳しさからトマトを保護する必要がある。しかし、子どもという存在は、温室という存在の保護下に置かれるべきでなく、野原のような子供にとって足枷も手枷もない、現実の世界で過ごすべきだ。子ども時代の目標の一つとして、成長ということがあげられる。安全な殻の中に閉じこもる、閉じこもらせるような真似はやめるべきだ。なぜなら、外にある広い世界とのふれあい、体験によって子どもは成長することができるからで、過保護や管理ではなく子供が成長できるような、そういう環境下で育てることが肝要である。