これまでの人の観察や(感)

   小5 あこふゆ(akohuyu)  2025年11月5日

 まず、この長文はこれまでの人の観察や考えを利用するという必要から、読書はまず必要である。現在の学問にとっても必要である。いな、学問がだんだん進歩して、人間のありさまについても、自然のありさまについても、観察や思想が積み重なれば積み重なるほど、たくさんの本を読むことが必要になってくる。たとえばロビンソン、クルーソーのように、ただ一人離れ小島に漂い着いて、不便な一人ぼっちの生活を送るということは、お互いの一生のうちに、まずありそうにもないことである。しかし、ロビンソン、クルーソー漂流記という書物を読めば、人間はそうした場合どう言う気持ちになり、どういう行動をするかということが分かる。クルーソーは不便極まる境涯の中で、その不便に打ち勝つために奮闘した。考えてみれば我々の住んでいる地球もたくさんの不便を持っている。これも大きな宇宙の中の一つの離れ小島であるかもしれない。クルーソーの離れ小島は人間がすくなすぎて困り、地球は人間が多すぎて困っている。困っている点では我々もクルーソーと同じなのである。つまり、われわれの心の中にはクルーソーがいるのである。つまり人のことを読んでいるのではなく、自分のことを読んでいる。という長文だ。

 わたしが読んだ心に残った本は、西遊記だ。まず、感想は孫悟空が現実には絶対にいない仲間三人を連れて世界の果てに旅をしていて、その途中で金閣と銀閣という兄弟の鬼を相手の武器を使い、倒したところが賢くて好きになった。また、その武器とは、ひょうたんで、そのヒョウタンはふたを開けて名前を呼び、返事をすると返事をした人が吸い込まれて溶けてしまう。という恐ろしい武器だ。また、西遊記がわたしにくれたものは無限の好奇心や、自由気ままな生き様だ。

 母は、シートン動物記を愛読していた。母は、シートンの本は、動物にも人間のように気持ちがある。ということが分かるから好きになったらしい。読んでいるときの様子は、椅子に座ってずっと本に向かっていたらしい。シートン動物記のシリーズと言えば、わたしはギザミミウサギしか知らないが、母は、たくさん知っていた。もちろんギザミミウサギも知っていた。わたしはそれを聞いて、やはり何回も読んでいる人はすごいな。と思った。

 人の振り見て我が振り直せということわざがあるように本は他人ではなく、自分のことを読んでいるのでその読んだ本の人のことを見習った方がいい。ということが分った。