言葉
中3 あききの(akikino)
2025年12月1日
日本の普通の書き言葉は、感じの地位が絶対的に高く、カタカナは代用的な役割しか引き受けていない。ところが、カタカナが急にこの地位を逆転してくる場合がある。欧米の学芸や学芸人を示すのに用いられる場合だ。しかしそうなるのは、もとが漢字ではない文字を表す時であって、もとが漢字であるならば、事態は一変してしまう。日本式の一面的なオリジナル性に基づく二つの言語の交流は、多くの場合どちらか一方の独善による不完全なものになりがちだ。人間の交流は本来、対話によって成り立つからである。文化の交流が一方的に統制されたものから相互的で直接的なものへと移ると、言葉は紙から抜けでて音になる。言葉には愛があるということを理解する必要がある。私は、言葉に愛を込められるような生き方をしたい。
そのための方法としてまず、言葉の意味を理解することだ。破天荒という言葉の意味をどう捉えているだろう。本来の意味は、誰も成し得なかったことを初めて行うことだ。しかし、私は本で破天荒な性格と書いてあるのを見て、豪快で乱暴な様子だと誤って認識していた。破天荒の意味について、文化庁の調査では豪快で大胆なようすと認識している人が令和二年、平成二十年の調査でどちらも六十パーセント以上、誰も成し得なかったことをすることと認識している人が令和二年の調査では約二十三パーセント、平成二十年は約十七パーセント、という結果になっている。ここから、間違った意味で認識している人がとても多いということが分かる。
また第二の方法として、相手の名前などをしっかり覚えておくことだ。私には名前を覚えるのに時間がかかる友達がいる。入学式で会ってから三年目になる今でも間違えられることが度々ある。私は急に違う人の名前で呼ばれると驚いてしまう。逆に、名前をすぐ覚えられる友達もいる。この子は、入試で誰がどの席にいたことや、入学式であったことなど、過去のことを鮮明に覚えている。とても記憶力が良い。入学して初めの頃は名前で呼ばれるのが当たり前だと思っていたので、特に何も思っていなかった。が、私も名前を覚えられなくてしばらく出席番号で呼んでいたことを思い出すと、入学したてで緊張しているなか名前で呼ばれることは安心するし、嬉しいことだと思った。
確かに、合理的に物事を進めるためには、言葉を記号として扱う方が便利な時もある。しかし、「優しい言葉は、どんなに小さくても一生残る贈り物である。」という名言があるように、私は言葉に愛をこめられるような生き方をしたい。