言葉

   中3 あおさみ(aosami)  2025年12月1日

 日本の書きことばでは、漢字の地位が絶対的に高く、高度に抽象的な概念の表記に不可欠とされる。それに対しカタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。その国で一般的に呼ばれている呼び名を、日本式の呼び名に変えるのは、音のオリジナル性を全く犠牲にした上に成り立った、無努力、横着のオリジナル性である。文化の交流が一方的に統制されたものから相互的で直接的なものへと移ると、ことばは紙から抜け出て音になる。私たちはことばには愛があるということを理解するべきなのである。

 私は言葉に思いやりや愛を込められるような生き方をしたい。

 その方法として第一に、言葉の扱い方を知ることだ。歳を重ねるにつれて、広がる世界に比例するように語彙が増えてゆく。本でさらっと読んだ言葉、初めてみる熟語の意味を一生懸命考えた言葉、知ったかぶりをして後からこっそり調べた言葉。私は言葉を知れば知るほど世界が鮮やかになっていくのが大好きだ。

私たちは「微妙」「適当」といった言葉をいつ使うだろうか。何かイマイチなもの、パッとしないものを見たときに「微妙」と使い、大雑把という意味合いで「適当」と使う人が多いのではないか。だが本来「微妙」は美しさや味わいがなんともいえず優れているさま、なんとも言い表せないさまを表し、「適当」はある状態や目的などに程よく当てはまるさまを表す。言葉自体や意味が時代が経つにつれて変化するのは良いと思うと同時に、語彙を増やしたり、本来の意味をもう一度確かめたりするべきだと思う。なぜなら言葉を理解していないのは言葉を雑に扱うことの入り口になるからだ。私自身も「やばい」を覚えてから、何事も「やばい」の3文字で片付けてしまいがちである。嬉しい、すごい、綺麗など感情にも種類があるのにそれを一括りで表してしまうのは勿体無い。

言葉は昔の方々が出来事や情景を通して感じた感情、思いを形成したものである。生きた人たちが作った言葉は同様生きているのである。人々とさまざまな時代を共に過ごし、人々が言葉に、言葉が人々に息を吹きかけてきた。その息を吹かせ続けるために、その言葉本来の重みを肺腑に染み入れ、自分の発する言葉に責任を持つべきなのだ。また、言葉の扱い方を知ると、人と適切な距離を持ちやすい。敬語や尊敬語をはじめ、声のトーンや速さ、リアクションなども相手によって使い分けることができる。自分の思いを正しく伝えるためにも言葉を自分の味方につける必要があるのだ。

 第二の方法として、国同士の間でも、相手の言葉や文化を尊重することだ。

今日の社会、世界問題はお互いが相手に歩み寄ろうとする姿勢が足りないことにあると感じる。ガザ問題やウクライナ侵攻、日中関係など、状況を改善させたいと思うのならば、お互い冷静に話し合い実践的な解決へと繋げることが必要だ。国連安全保障理事会で常任理事国の持つ拒否権が行使された回数は1945年から2022年の期間で308回に上る。常任理事国の5カ国が世界の問題を自国の利益や印象のために行使することもあるそうだ。私は人権侵害や犯罪行為を、絶対的な軍事力や支配力によって責任を逃れさせるのではなく、国際社会が実効性のある制裁を科すべきだと思う。国際社会が話し合いを拒み、力に頼り続ける限り、問題は決して解決しない。お互いを尊重し、国際社会が一体となって問題の解決に注力する姿勢こそが、問題が解決する唯一の道だと考える。そしてどんな相手であれ、こちらが相手を尊重する姿勢を示せば、相手も私たちを尊重しようとする態度につながることを信じたい。

確かに、言葉を記号として扱う方が、簡単に物事を片付けることができる。

そして、スマホなどの翻訳機も進化し、これからさまざまな国の人と話せるようになるだろう。

しかし、「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物のことである」という言葉があるように、言葉も「言葉」という記号を超えた可能性のあるものだと思う。私が英語や中国語などに触れる理由も、言葉で、言葉以上のつながりを感じたいからだ。自分が自分でいるために、人へ想いを伝えるために、さらに人と人を繋ぐために言葉は使われてきた。これから私は言葉を人や感謝のために使っていく。私の瞳はきっと世界のありのままの景色を映しているはずだ。