愛は大きな力であるから
中3 みさと(aetami)
2025年12月1日
日本のふつうの書き言葉では、漢字の地位が絶対的に高く、それに比べてカタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。ところが、欧米の学芸や学芸人を示す場合には、この地位を逆転して、漢字のはるかに及ばない威信を帯びることがある。中国の方の名前を読むときに、日本人は日本人による漢字はオリジナルで不変だという安心感をもって接している。だが、そのオリジナル性は音のオリジナル性を全く犠牲にした上に成り立った、無努力横着のオリジナル性である。
私は、言葉に愛を込められるような生き方をしたい。
そのための方法としては第一に、相手の名前をしっかり、正しく覚えておくことだ。私が生徒会長任期中だった際、学校説明会のボランティアに参加してくれた一人の後輩がいた。「姜さん」という人だ。「きょう」と読むらしいのだが、ボランティアメンバーの名前を読み上げる時に読み方が全然わからなくて、相手にとても申し訳ないことをしてしまったと反省した。特に私は名前を間違えられることに敏感だと思う。なぜなら私自身がよく間違えられるからだ。読み方はわかりやすいのだが、文字で書かれるときに「実里」なのによく「美里」と間違えられる。担任にも間違えられたときは、慣れているとはいえショックを受けた。このように、名前は様々な願いが込められている宝物である言葉だからこそ、大切に扱うことが重要なのだ。
また第二の方法としては、国同士といった大きい規模になっても、相手の言葉や文化を尊重することだ。
言葉というのはそれを扱う人の大きなアイデンティティであり、それを奪われると人々は大きな反感をあらわす。私が修学旅行で沖縄の民泊に泊まらせてもらった際に、その家の人からアメリカ統治時代の話を聞かせていただいた。その時に、使うお金はドルになり、言語も英語があふれた状態に強い反感を感じたと教えてもらった。その人は優しい人であるため何か特別反抗したわけもないらしいが、何か大きなアイデンティティを奪われたような気持になったらしい。
確かに、合理的に物事を進めるためには、言葉を記号として扱う方が便利な場合もある。だが、私たちは人間なのであり、感情をもち、理性をもち、言語や文化を発達させてきたという歴史をもっている。ただ数字で判断することはマニュアルさえあれば誰でもできるが、人間の強みは考えられるということなのだ。愛を込められるということなのだ。名前は中でも大きな文化で、親からの愛を特別にあらわした例だと考えている。そして子供は、その愛を肥料としてすくすくと育ち続けるのである。愛とは大きな力であるから、私たちはもっと常日頃から言葉というツールを通してその力を活かすべきだと考えた。