食べ物の多様性

   小5 あけのの(akenono)  2025年12月1日

 「いただきます。」〈〈構成〉〉

私は、お皿の上にのっているオムライスに満面の笑みを向け、食べ始めた。

私は、玉ねぎが大嫌いだ。味も食感も嫌いで、牛丼などについてくる玉ねぎは絶対に取り除いてしまう。しかし、お母さんが作ってくれるオムライスは別だ。お母さんが作ってくれるオムライスには玉ねぎが入っているものの、ほとんどが溶けてしまって玉ねぎを感じないのだ。それに、もし少しは感じたとしてもオムライスのおいしさにかき消されてしまう。そのくらい、お母さんが作るオムライスはおいしいのだ。

お母さんは、もちろん違う日にも作ってくれるが誕生日にオムライスを作ってくれる。〈〈題材〉〉誕生日に作ってくれるオムライスは普段の物とは別格で、卵の部分に「おめでとう」とケチャップで書いてくれる。そして、お母さんが作るオムライスは卵の焼き加減もちょうどよく、ケチャップライスの味も最高で、具とお米も黄金比になっている。つまり、非の打ち所がないのだ。そして、一番の良いところ、それは玉ねぎを感じることなく食べられることだ。これは、お母さんも玉ねぎが嫌いだから実現したことなのだが、お店のオムライスには小さく切られた玉ねぎがたくさん入っていて、いくら小さいとはいえ食感が残っている。そうなると、玉ねぎが大の苦手な私にはせっかくの味が台無しになってしまうのだ。しかし、玉ねぎをほとんど感じずにすむお母さんのオムライスは、欠点が一つもなく、きれいなまん丸の球体のように完璧なのだ。〈〈表現〉〉これほど玉ねぎが嫌いな私だが、ある程度の物は好きなものと一緒に食べたり、水で流し込んだりと工夫して食べている。しかし、給食で出てきた玉ねぎサラダは、正面から戦うしかなかった。〈〈題材〉〉その玉ねぎサラダは、ほぼ玉ねぎしか入っていなく、しかも一つがそこそこ大きくて、牛乳で流し込もうとしても、好きなものとたべようとしても無駄な努力だった。そんなことをしてもますますまずくなるだけで、効果はゼロだった。私は吐きそうになりながらなんとか格闘していたが、玉ねぎが大好きな友達は「これ、おいしいね」と言いにこにこしながら食べていて、私は信じられない思いになった。私は、誰かにとっての好物は誰かにとっての嫌いなものだということが分かった。

お母さんは、実家のお雑煮が大好きだそうだ。お正月には毎年食べていたものの、今はお正月に実家に帰ることはほとんどなく、食べられないと言っていた。〈〈題材〉〉自分で味を再現しようとしてもその味にすることはできず、物足りない気分になってしまうそうだ。私はこの間、お母さんの実家に泊まりに行って食べたのだが、確かにそのお雑煮はとてもおいしく、お母さんが再現したものとは違う味をしていた。私も、お店で食べたものでとてもおいしくて、でも再現することはできなくとても残念な思いをしたことがある。お店の物でも残念なのに、実家の味が再現できないのは取っても残念なことだと感じだ。

誰かにとっての好物は、誰かにとって苦手なものだということが分かった。〈〈主題〉〉また、もう一度食べたくても再現のできないものもあることが分かった。これからは、食べ物にも多様性を意識していきたいと思う。〈〈主題〉〉

「ごちそうさまでした!」

とてもおいしいオムライスはいつの間にか消え、お皿は光を放つほどきれいになっていた〈〈構成〉〉