多文化交流
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人間は、混沌と化した世界に対して文化という枠組みによって秩序を回復する試みが行われ、世界を解釈することができるようになった。文化は人間が集団としてある意味では恣意的に作り出した記号体系ではあるが、一旦出来上がるとそれは自立性を獲得し、逆にその創造者を呪縛するようになるのである。人間は文化という枠からはみ出してものを認識さえできないし、また文化はそれらを抑圧している。私たちは、自分たちの文化から外れるものでも受け入れるべきだ。
第一の方法は他の文化の有用性を知ることだ。文化の内側を私たちが住む世界だとするならば、他の文化を知ることは純粋に自分の住む世界が広がるということだろう。つまり、できることの種類がより多様化するのだ。私も他の言語を勉強する中で、日本語では一言では言い難く、複数の語を用いたとしても形容しにくい状態や感情を一語で表現できる単語が他の文化にはあるのが分かった。ちょうど先々週ぐらいに学校で習ったのだが、北海道の方言で、いずいという言葉がある。これは例えば服のタグがずっと肌に当たっている時のような、しっくりこない妙な違和感をバシッと表す単語だ。歴史的にも、日本は幕末に開国し、西洋の文化を積極的に取り入れることによってその国力は飛躍的に上がっていった。明治初期の街の風景を描いた絵を見ると一目瞭然だが、至る所に煉瓦造りの建物やガス灯があったりと西洋の文化によって日本人の世界は大きく拓け、より暮らしやすくなっただろうことが窺える。一つの文化という枠組にとらわれず、他から良いところは取り入れることが、我々自身の文化の進歩にも繋がっていくのだろう。
第二の方法は、積極的に異文化交流をすることだ。人間は慣れていないこと、初めて見るものはどうしても忌避してしまう。例えば食べたことのない食べ物だ。私も母が鳩をおいしいおいしいといって食べていた時に、私自身は食べる気は全く起きなかった。なおさら他の文化のことになると、グローバル化が進んだ現在でもなお、様々な場面において自分たちの文化のやり方とは異なった光景が繰り広げられる。そういった時嫌悪感とさえはいかなくても好印象を抱くことは少ないだろう。それに対し、積極的に他文化と接し合い、異なる文化には異なる物事への取り組み方、考え方があることを身をもって理解していると、目新しいことでも文化の違いとして受け入れやすくなる。
確かに自国の中では自分たちの文化を優先するのが良い。郷に行っては郷に従えというように、文化という枠組みの中ではその秩序に従うのが一番だ。しかし、二つの文化を知るものは一つの文化に安住するものの倍の世界を生きる。他の文化には有益なものもたくさんあるし、また私たちの考え方をより豊かに、多角的にしてくれる。私も自国の文化を尊重しながらも、他の文化に主体的に接していきたい。