はっきり断ること

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 肯定の場合は調子よく「はい!」という人が、否定になると、内容にも寄るが、無意識に声を落としてしまう。日本語の否定は「質問」の文系あるいは質問者の移行に向けられているが、英語の否定は質問を受ける側の、現実の行為の有無に向けられている。こうして声を押さえることが、客観性に踏みとどまる一つの手立てともなるわけだ。欧米のように「いいえ」とはっきり言うことは大切だ。日本で使われる「いいえ」には、声の調子や声量を少し変えるだけで、印象が変わってしまう。相手が本当にそうなのか、と疑い誤解を招かないためにも自分の意見ははっきり言うべきだ。相手に自分の意見を伝えることには勇気がいる。ある経験からこの大切さを学んだ。私はオーケストラに所属している。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの4つの楽器演奏者たちと連携している。最近は少子化で弾く人は手で数えられる程度しかいない。そんな中オーケストラを盛り上げようと団員の一人が次の定期演奏会のポスターは子供に書かせてみたらどうかと提案した。その意見に大人全員が納得し、実行されることになった。このポスターを作るのは誰になるのかはだいたい検討がついていたが、結局私が書くことに決定した。自分の予定上、ポスターを作る時間はあまりなかった、断る理由はいくらでもあったが私は引き受けることをえらんだ。これまでオーケストラを支えてくれた人への感謝を伝えられるのはこれっきりだ。しかしこの制作は困難だった。学校の委員会の委員長という立場をおい忙しい中ポスターも作ることは決して簡単なことではない。将来、自分ができないことをはっきり断る力を見つけることは自分のやりたいことを見つけることにもつながって来る。この経験から、言葉はあいまいにすれば、その場は静かにとおりすぎるかもしれない。けれど伝えるべきことは伝えなかった沈黙は、後になって後悔してしまうかもしれないと考えた。

 しかし、日本人が「いいえ」をはっきり言わないのは相手に対する思いやりの気持ちが働くからだ。昔話の、『かぐや姫』では、求婚してくる五人の貴公子に対して、相手を傷つけないようにやんわりと断るため、「仏の御石の鉢を持ってきてください」と実現不可能な課題をだすことで、直接否定しない方法を選んでいる。竹取の翁や翁の妻も結婚を進めるが、かぐや姫は、決してはっきりというのではなく、ただ、首を横に振るだけだった。この言動には、自分に対して求婚してくれた五人の貴公子への感謝と、ずっと育ててくれた翁と翁の妻への思いやりがある。相手を思いやるかぐや姫のやさしさは日本人独特のものかもしれない。この昔ばなしから人間関係において、すべてを明瞭な言葉で表明する必要はない。沈黙やあいまいな返答が、不誠実さを示すというわけではない。社会は常に明確な言葉を求めてくる。例えば、会議の場で自分の意見を中途半端に終わらすと不採用になることがある。しかし人と人の間を円滑に保つものはしばしば言葉の外側にあることもあるのだ。

 たしかに誤解のないように自分の意志を伝えていくことも相手に対する思いやりを持つこともどちらも大切である。しかし、一番大切なことは「羅針盤がなければ船は進めない。」とあるように羅針盤を方向性と例え、風や波を読む力を相手への思いやりととるなら安全に目的地に着く航海をするためには、選択に後悔しないことが一番大切だ。