発明
高2 ばにら(tokunaga)
2025年12月1日
特許の歴史は十五世紀のベニス共和国より始まった。ルネサンス真っ只中の時代、社会発展に寄与する発明の促進を目的に、発明者条例が成立した。一定期間の独占権を与える代わりに、その技術を公開することを求めることで、発明者の富と名誉、そして新技術の社会的運用を保証するものである。この制度は、次第に欧米諸国家で採用されることになり、産業革命以降の資本主義社会の活性剤となった。しかし、同時に特許制度、ないしは知的財産権は論争の火種でもある。実際に、公共財の特許取得で一儲けを狙う人もいれば、発明品の違法コピーの散乱も起こりうる。現代社会において、特許制度の揺らぎは顕著になりつつある。特許取得者の権利と社会貢献の正統性の間の妥協点の不均衡が目立つようになったのだ。では、なぜこのような揺らぎが生じるのだろうか。その理由を以下に二つ考証したい。
第一の理由として、物質的に満たされた社会で「発明」の価値が軽視されることが挙げられる。例えば、インターネット上に氾濫する漫画やアニメの無断転載だ。有料の商品やプラットフォームと、全く同じものの無料提供ならば、私たちは後者を選ぶだろう。実際に、私もアニメやテレビ番組を無断転載で見ることは少なからずある。YouTube上にあるのだから仕方ないじゃないか、と見てしまうのだ。しかし、エンターテイメントも一種の「発明」である。魅力的なキャラクター、面白いストーリー、独創的な演出は、いわば「発明者」による享楽の「発明」だ。だからこそ、自身の作品のコピーが出回る状態は発明者側からすれば最悪である。自身の作品に心血を注いだとて、それに見合う報酬がないのだ。だが、これを私たちは頭で理解しながらも、やはり「無料」を選ぶ。それは「娯楽」という消費の軽さ、そして発明者の痛みに対する共感の欠如による。消費者はただ消費するだけであり、多くは供給側に立つことはない。特にコンテンツが氾濫するインターネットにおいて、その創造一つ一つの価値は減少する。数ある中からそれを「選択」することで、エンタメに「時間」というコストを払ったという意識が生まれる。このシステムこそが、発明者を無視した消費の非正当性を紛らわしているのではないか。
第二の理由として、「発明」の非個人化が挙げられる。発明が企業のみに帰属することによって、特許取得の利益である「名誉」が減退したのではないか。それによって、「特許取得」の名誉よりも、商業利益の道具としての意識が強化されたことが考察できる。
例えば「発明家」と言われれば、すぐに思い浮かぶのはエディソンやベルである。十九世紀後半における蓄音機、電話、電気の発明は、確かに私たちの社会に多大な変化を促した。では、同じく現代社会に莫大な影響を及ぼしたiPhoneの発明者は誰だろうか。このとき、一番最初に思い浮かぶのはスティーブ・ジョブズであるが、彼は経営者だ。この場合、純粋な意味での「発明者」はiPhoneを構想し、それを実現させたエンジニアたちだろう。しかし、彼らは個人ではなくApple社の従業員であるから、「発明」の名誉はApple社に帰属される。
このように、現代における「発明」とは、もっぱら企業や国の下で行われるものになった。発明家は偉人ではなくシステムとなり、「特許」の精神的魅力は失われた。その結果、個人としての「特許(知的財産権)取得」の事例において、詐欺まがいの行為が目立つようになったのではないか。純粋な「創造」よりも、すでに存在するものの盗用の方が商業的に「コスパが良い」のは確かだ。例えば、2022年の「ゆっくり茶番劇」の商標登録問題は記憶に新しいだろう。自分の発明ですらない動画形式をある種略奪する形での登録であり、多くの批判を集めた事例である。このような個人の悪用が論争を呼び、知的財産権の制度そのものに対する批判につながっていることが指摘できる。
以上より、特許制度の脆弱は、主に「発明」に対する個人の意識の低下に起因するものだと推察する。物質社会における創造の軽視、また個人申請の悪用事例がその不均衡をもたらしていることを分析した。もちろん、特許制度は発明者と社会の双方の利益を守る機能として優れたものであり、その効果は十五世紀から現在に至るまでの技術発展を見れば明らかである。しかし、その技術を享受する側の有り難みは比例して減少していった。元々、発明とは商業価値以上に創造の喜びであり、それひとつが社会を転換させうるロマンだ。私も子供の頃の夢は発明家であった。だが、現在その煌めきは失われてしまったのではないか。だからこそ、消費の快楽が何よりも優先されるように見える社会において、創造ないしは発明の意義を問い直す必要があると主張したい。