自分自身を基準に
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年月日
最近わが国では、あらゆる所で「国際化」の必要が唱えられている。世界において「国際化」がスローガンさながらに叫ばれているのは日本だけである。欧米世界に、これをめぐる議論も、自己反省も存在しないし、第一、日本人が使っているのと同じような意味での「国際化」という言葉が存在しないのだ。日本の、「国際化」が求められる所以は、今のところはまだもっぱら欧米の論理であって、日本はそれに自分をある程度合わせない限り、国としての生存を維持できないからにほかなるまい。つまり、「国際化」は必要から、やむを得ず強いられていることであって、決して美しい正義の御旗なのではない。私は、他の人を基準にするのではなく、自分自身を基準とするような生き方をするべきだと思う。
そのための方法としては第一に、自分のことは自分で決めることである。中学三年生となり、そろそろ進路について深く考えなければならないこととなってきた。進路なら自分のことだし、自分で決定するべきだと私は思うが、中にはそうではない人もいる。クラスの仲がいい子たちが、私立の進路を同じにしようとしているのだ。私も誘われたが、断った。確かに断って関係が悪くなってしまったら、残りの中学校生活が大変になるに違いない。しかし、進路は自分の人生に関わる大切なものだから、他人に合わせて決めるというわけにはいかないだろう。自分の意志を持って生きていくのも大切だと思う。
第二の方法としては、歴史上の偉人から、自分自身を基準する生き方を学ぶことだ。聖徳太子は隋に、「日出処の天子より、日没処の天子に書を送る。つつがなくお過ごしだろうか」という内容の書を送った。これは、隋と交流している他の国のような、朝貢の形式ではなく、対等な関係を求めるものだった。そうして、自国の存在を他国にアピールしたのであった。
確かに、周囲との比較で自分を見るということは大切である。しかし、「自分の人生は、自分で決めろ。他人に足を踏み込ませてはいけない。」という名言があるように、自分自身を基準として生きていくことも大切だと思う。