行列
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年月日
行列という形式そのものは、カラハラ砂漠の狩猟採集民サン人が狩りなどで遠出するときにも組まれ、西洋では戦争の捕虜を行列させたことが古代の歴史書にもみえる。小さな個人商店では並ぼうとする買物客はいないが、スーパーマーケットでは工場のアセンブリィ・ラインのように、客がレジで列をつくることが前提にされていることは行列の工業社会的性格を端的にしめしている。行列が頻繁にみられる現代の公共的場面では、年齢や社会的地位や性差や人種差などは体系的に無視されるが、そうした先着優先の平等主義がないところでは行列は生まれない。行列をつくって順番を待つという習慣は、たとえば士農工商の身分制社会ではかんがえられないように、元来が西欧の近代社会に特有な行動様式なのである。客がひとりのあいだは、待つ側の客と待たせる側の店員や係員との心理的関係だけが問題だが、客がふたり以上になって列ができると、そこに待つ者同士の社会的関係の問題が加わってくる。ひとりで待たされているあいだは、無力感や退屈や苛立ちとたたかっていればよいのだが、行列ができたとたんに、割りこまれないように、礼儀の範囲内で相互監視しなければならない。ギリシアなどヨーロッパでも工業化がおくれた社会の人びとには、そんな行列もヒツジの群れのようにみえるらしい。民主主義には一定の均質性が必要だが、行列を見ていると、工業化社会が近代民主主義の母胎であることがよくわかる。僕は行列に賛成だ。
第一の理由として、とにかく順番がはっきりしていてラクチンなことだ。頭を使わなくても、来た人から並べばいいから、えらい人でも、子どもでも、みんなでてきとうに並ぶだけなので不公平とか気にせずに並べるからだ。でも、時々、行列の時に自分の前に知らないAさんがいてAさんには友達B、Cさんがいて、途中から来たBCがAさんのことを見つけてAさんの前に割り込んでくるときがあるからどうかと思う。でもそんなことより何より結局行列の時、立って友達と遊んでいる時間が一番楽しい。
第二の理由として、ルールを守らないと混乱が起こるからだ。もし誰もが自由に割り込んだり、順番を無視したりして、争いごとや不満が出てきて、毎日のように争っていたら、日本がなくなってしまうので、行列のルールがあることで、みんなが安心して順番を待つことができているのだなと思った。ルールに感謝。
確かに個々の事情を考慮しないことには問題があるが、「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」という名言もあるように、行列本来の良さを認識するべきだ。