言葉から考える愛

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 日本の書き言葉では、漢字の地位の方が高く、それに比べてカタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。たとえばその国で一般に呼ばれている「トン・シャオピン」と書くとどこか不安なのに、漢字で書いて「トー・ショーヘー」と読めば普通の日本人は安心するだろう。これは、音はなぞりでしかないのに、漢字はオリジナルで不変だという安心感から来ている。このように、人の名前が漢字とカタカナの音に分かれる場合、文字だけの交流であれば問題ないが、愛と伴った関係であれば、言葉を音で呼ぶはずである。僕は、言葉などから愛を感じれるような生き方をしたい。

 そのための方法の第一が、相手の名前を覚えることだ。相手の名前を覚えると、他の人たちと区別して深く認識することができる。実際に僕は、まるごと高専のサマースクールに行ったときにそれを実感した。4日間のサマースクールで、僕は4人ほど名前を覚えた人がいる。そのサマースクールの間、彼らは、明らかに他の人たちより外見、性格などが結びついて覚えることができ、どのような人間かを、深く知れた。また、その人と関わる際にも、より親しさを感じることができた。そして、僕にしては珍しく、4か月ほどたった今でもその人たちの姿や雰囲気をはっきり思い出すことができる。このように、名前を覚えるという行為は、思考の中でその人を自然に区別し、理解を深める手がかりになるのだ。確かに、ただ区別するという点だけを取り上げれば、レッテルのように感じられるかもしれない。しかし、人をより深く知るための一つの入り口として活用するならば、むしろ大切なことだと思う。

 そのための方法の第二が、僕を含めた世界規模で、愛を感じる人が増えることだ。世界中の人間が、日々の会話など、日常の小さなことから愛を感じることができれば、地球はより平和になる。実例として、悟りを開いた人が書いた本「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」では、「万物は元々愛と喜びの存在で、悟りを開くことは、その愛や喜びを感じれる状態になることだ」ということや、「悟りの状態は、周囲にも伝播する」ということが書かれている。これは、簡単なことではないが、みんながどんどん悟り開いていき、愛を感じて生きていけたら、個人でも世界規模でも、平和で幸せになるはずだ。

 確かに、「明日〇時に集合」というような情報を伝える場合は、言葉から愛を感じることは難しい。しかし、悟りを開くと、普段のコミュニケーションや強いては情報伝達の言葉からも愛を感じることができるそうだ。ある対談では「私たちの本質は毎瞬の楽しみであり、遊びであり、新しいことをやってみるというような感じ」という言葉が出てきた。この言葉のように、愛や喜びは特別なものではなく、僕らに元々備わっている素質であり、本質だ。ただ、僕らがそれに気づいていないだけなのだ。これに気づくことが出来たら、世界はより美しく、幸せに感じれるはずだ。その為、言葉などの様々なものから、愛を感じ、気づいていけるような生き方をしたい。