生きる
中1 あおなち(aonati)
2025年12月1日
人は二足歩行で手を開放し、大脳で制御するという方法によって、急速に強い優勢な動物になった。強くなったために、狩る立場に立つことはあっても、狩られる側にまわることはほとんどなくなった。食われることは不幸である。 それは生命というものが個体にのみ宿り、 あらゆる努力を払って個体の在続をはかることが生命の第一原理である。以上は当然のことだ。動物の場合、我々とは、死の概念自体がずいぶん違うのではないかと思う。我々の精神は、死という言葉を聞いただけで、手を逆立てる。 想像力は、自分たちの惨めな姿を求めて暴走を始める。 だが、死とは本来一つの成就 一つの完成、一つの 回帰である。肉食獣に追われて逃げ切るか、食われるかは一つのゲームである。 何度勝った者も最後には敗れる。 自然界には自然史という言葉はない。 老衰もない。 動物は皆捕食者であると同時に獲物であり、 絶対の、優位に立って食うだけという動物はいない。その場その場で力を尽くすだけでそれを超える 不安があることに気づきもしない 近代の宗教がまことしやかに語る安らかな最期や大往生 の準備とは 、実は失われた野生動物と狩猟民族の精神の回復ということではないのか。私は、野生動物のように死を意識して生きることは大切だと思う。
理由は第一に、死のような絞め切りがあるからこそ、物事に一生懸命に取り組むことができるからだ。例えば、中間テストや期末テストだ。テストという締め切りがなければ、集中して勉強することができない。 僕は心肺症を生かした努力家だから、中間テストや期末テストは毎回本気で勉強している。 中学1年生の定期テストは残すことあと1回。 これまでのテストの結果は平均点を下回ったことはない。心配症の僕からしたら、平均点を下回ることは、 絶対にあってはならないものだ。実際に良い点数が取れなかったら、絶対自分を永久の果てまで攻めるだろう。テストは嫌いだが、やらなきゃいけないものは仕方ない。 いつまでにこの勉強をしてなど、締め切りがあるから、物事に 一生懸命に取り組むことができるのだ。
理由は第二に、死のような締め切りを自覚しないと計画性のない人生を送ってしまうからだ。良い会社は長期的・中期的・短期的目標を決めて、 それらの目標を達成するために努力を続けていると聞いたことがある。 人間の人生においても、長期的・中期的・短期的目標を定めることで、 良い人生が実現できると考える。僕には、引っ張られる側の人間ではなく、 引っ張る側の人間でありたいという目標がある。だから、9年後、社会で働き始める時に、引っ張る側の人間であるようにそれまでの9年間でみんなをまとめる力をつけたいと思う。
確かに死を克服しようとして人間の文化は進歩してきた。 しかし、「限られてきた人生で『何をするか』ではなく『何をしないか』である」という名言があるように、 人間は締め切りを意識するからこそ有意義な人生を送ることができるのだ。人生でやりたいことは無限にある。だが、名言でも言っている通り無限にある中で何をしないかが重要になってくる。だから、これからは無限の中から本当にやりたいもの見つけていきながら人生を送りたいと思う。