言葉に愛を込めて
高2 とやさく(toyasaku)
2025年12月1日
日本の書き言葉では、抽象的な概念の表記に不可欠な漢字とそれに比べて代用的な役割を持ち、幼稚園文字であるカタカナがある。ただ、カタカナは稀に欧米最新文化の言葉を代弁するほどの威信をおびることがある。文化の交流が一方的に紙で行われると言葉は中心となるが、相互的で直接的であると言葉は音となる。そして、筆者はことばには愛があるということへの理解を促している。私は、言葉に愛を込められるような生き方をしたい。
その第一の方法として、相手の名前を覚えるようにすることだ。相手の名前と顔が一致することによって、その人との会話がより良いものになるからである。以前部活に入って間もない頃、初めて最高学年の先輩に下の名前で呼んでもらってとても嬉しく、より練習に身が入ったことがある。それからは、私も後輩が入部したら積極的に名前を憶えている。そのため、名前と顔が一致していない程会って間もない頃と比較して練習中のアドバイスや何気ない会話がより濃く、印象的になっている。よって、積極的に名前を記憶することは大切である。
第二の方法として、他者の立場に寄り添う言語を普及させることだ。例えば、手話やピクトグラム、優しい日本語などは他者に寄り添う言語である。それらは、普段多くの日本人が利用する日本語だけではコミュニケーションが難しい人々に向けて使われる言語媒体である。特に最近、日本語を学び始めて間もない外国人に向けて、やさしい日本語を使おうというワークショップが5年前と比べて多く見受けられるようになり、ピクトグラムは言語や人種などの差を縮めるものとして2025年の大阪万博にも注目された。歴史的実例として、ヘレンケラーとサリバン先生の話が挙げられる。目も見えず耳も聞こえないヘレンケラーに、サリバン先生は手に文字を書くという言語媒体を教え、ヘレンケラーに愛を込めて寄り添った。この他者に寄り添う言語を得たことで、ヘレンケラーは偉業を残していくことができたのである。このように、他者に寄り添う言語を積極的に用いるようにしていきたい。
確かに、翻訳機などを利用して自分たちが使う言語だけで過ごしていくことができるならば、他の言語に対しても愛を込めなくても良いかもしれない。しかし、「トランプが生きているのは、それが実際にプレーに使われているときである」という名言があるように、実際にその言語が思いやりを持って使われているとき、本当に言語を使っているということになる。したがって、言葉に愛を込めて使えるようにしたいと私は考える。