保守悪玉革新善玉論

   高2 かずま(auyoto)  2025年12月1日

 歴史上、我々からオリジナリティを奪いとった典型的な事例として「新規御法度」と呼ばれた文献がある。ここでは、新規の物がすべて悪とみなされたのである。日本でこういう「革新」が抑圧される中、先進国のイギリスでは18世紀の産業革命期を迎えようとしていた。日本は産業革命どころの話ではなく、新しいお菓子さえ作ってはいけないと言われる有様であった。人々は変化を求めず、ひたすら幕藩の体制下の秩序を守ることを強いられたのである。このように、日本でありがちな保守的な政策などは、実質的に停滞と同義であり、それよりも革新的な政策の方がよしとされる風潮がある。しかし、それは間違いである。実際は、どちらが優れているだとか、劣っているだとか、そのような矮小な表現では到底説明しきれないものなのだ。

第一の理由として、必ずしも革新がよい結果をもたらしてくれるとは限らないからだ。約百年ほど前、日本ではまず広田内閣によって軍部大臣現役武官制が復活。これにより内閣を組閣する際には、実質的に必ず陸海軍の許可が必要となった。さらに第二次近衛内閣によって全党が解散させられ、大政翼賛会が創設される。これらの一連の流れは、ナチスドイツの影響が大きい。

ちょうどのころ、日本は比較的に見て民主的な体制にあった。大正デモクラシーに代表される護憲運動だ。原敬、犬養毅などの著名な人物らによって有権者が国民の1%ほどしかいない状態から、男子のみとはいえ普通選挙の権限を勝ち取ったのである。しかしその後、先に述べたように軍部の発言力が強化され、民主的な政党政治は終わりを迎えることとなる。しかも、一般的な日本人は軍部が政治に介入していくのを憂いたどころか、逆に両手を上げて歓迎したのである。

なぜなら遠い欧州の地で、一つの国家が目覚ましい活躍をしていたのを、多くの人が目撃したからだ。そう。それこそがかの有名なナチスドイツだ。第一次世界大戦後、ハイパーインフレで国内の産業はガタガタ。右翼団体と左翼団体の抗争が日常茶飯事という、ディストピアという表現がよく似合うような状況から、ヒトラー率いるナチ党の台頭によって、今では大国フランスを降伏にまで追いやり、ヨーロッパを破竹の勢いで制圧していくに至った。そんなナチスドイツの強権的でファシストという新たな政治体制は、当時の人々からしてみれば「革新的」以外の何物でもなかったろう。

もちろん日本の政党政治が終わりを迎えた原因はこれだけではない。既存の政党の汚職、不満などによる、議会への反感も政党政治終焉に一役を買ってしまっている。しかし、革新的な政治体制を追い求めたということも事実のはずだ。しかしその核心を追い求めた結果、手痛いという生ぬるい表現では済まされないしっぺ返しを食らうこととなったのは誰もが知るところである。日本は無謀な世界大戦に挑み、大敗し、本土は焼け野原となった。これらすべてが革新的選択によって生み出された結末だとは言わない。しかし、もしあの時、保守的な思いで踏みとどまれていたら、また違った未来があったのかもしれないのだ。

第二の理由として、逆に保守的な行動が、思いのほか良い効果を生んだこともあるからである。かつて第二次世界大戦どころか、第一次世界大戦が起こる前、フランスでは一人の偉人がいた。かの有名なナポレオンである。彼はフランス革命から混迷を極めていたフランスで、疲弊した多くの国民の心をつかみ、ついには選挙を経て皇帝となり、フランス共和国はフランス帝国へと姿を変えた。そして彼はそのまま、破竹の勢いでヨーロッパを手中に収め、ロシアへと矛を向けたが、あまりに過酷な極寒の大地の影響もあり、ロシアに敗北。そのままフランス帝国は諸外国に敗北し、ナポレオン皇帝はエルバ島に流刑に処された。しかしフランス革命を発端とするナショナリズム運動や立憲運動はもはやヨーロッパ中に拡大した。それらは諸王国の王や貴族にとってまさに死活問題であった。そこで戦後の新たな国際秩序を定めるために行われたのが、有名なウィーン会議である。

ウィーン会議では、「会議は踊る。されど進まず」という言葉に代表されるように、各国の代表の権力争いのにらみ合いの影響で、遅々として進まなかった。しかし、タレーランらの尽力よってついに、ヨーロッパの新秩序が誕生した。それは、かつての古き良き時代、つまり王や貴族が国家を支配する体制に戻るということを決定した重要な出来事である。確かにこの結果は、ナショナリズムや立憲主義を求める大衆にとっては不服以外の何物でもない結末だったであろう。しかし、各国首脳人、そして何よりフランスにフォーカスを当ててみるとそうとも言い切れない。各国の王や貴族は、この議決によって自らの領土を失わずに済んだだけでなく、もし仮に国内で革命がおきたり、起きる予兆があったりした際、周辺諸国の力を借りて弾圧することが可能になった。これは上流階級の身分を保持する上で非常に大きな役割を果たしただろう。そしてそれ以上に、フランスはヨーロッパ全土を混乱に陥れた敗戦国という立場であるにもかかわらず、何と旧来の領土をほとんど失うことがなかった。もちろんナポレオンが征服した土地は失ったが、ウィーン体制の「元の体制に戻る」という性質のおかげで、王政に戻り、特段大きな犠牲なく戦後処理を終えることができたのだ。確かに最終的には、フランスは帝政を経た後共和制に戻るし、ウィーン体制も次第に崩壊していく事になる。しかし、繁栄はいつか終わるものである。それ以上に、保守的な考え方によって当時の上流階級並びにフランスが多大なる得をしたことは言うまでもない。ここで革新的な議決、例えばすべての国家に憲法の発布を義務付けるだとか、そういうようなことが決まっていれば、それは確かに国民としては喜ばしい結末かもしれない。しかしそれは上流階級の権力を制約することであり、当人らからすれば到底受け付けられるものではなかろう。時には過去に回顧しようとする運動も利益を生むのである。

たしかに保守的な考え、運動が利益をもたらした例を挙げることは難しいかもしれない。革新的な考え、運動が不利益をもたらす例も同様である。どちらか一方が正しい、正解なのであると言いたくなる思想も充分に理解できるものだ。しかし、物事は何事もケースバイケースである。どんな妙薬であれ、使い時を間違えれば劇薬になるし、どんな名言だって、使うところが悪ければ凡言となりうる。保守も革新も同じようなものではないだろうか。どちらか一方のみという不器用な選択の仕方でなく、要所要所で使い分けていく事が重要である。情勢を冷静にかんがみ、適切な判断を下す必要があるのである。シーソーと同じようなものだ。一人でどちらか片方の端に座ってしまっては、あとは下がってしまうだけである。どちらか片方に居座るのでなく、両方とも使えるという立場にいてこそ、バランスが取れるというものだ。