本来、特許制度は
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年月日
私は、守誠作の「特許の文明史」という文章を読んだ。
本来、特許制度は発明を保護する狙いをもっている。技術の公開とひきかえに発明者に与えられる独占権には、三つの効用が期待できる。発明に要した開発費用の回収が可能、重複研究を防ぎ、研究の発展を促し、新しい発明および技術開発のための刺激剤にもなりうるからだ。歴史上、新規のことはすべて幕府に対する反逆と決めつけられた。新しいことは何もかも悪とみなされたのである。だからこそ、この抑圧が反発のバネになり、新しい時代を用意するための変革期を迎えることになるのである。このような変化を嫌う状況では、「発明の公開」を条件に「独占権」を与えようという特許の思想は育ちようもない。
現在の日本では、進むより保つに力を加えていると感じる。
第一の原因は、変化よりも安定を求めるところにある。日本は他の国に比べると多くのことに安定を求める。例えば、就職においては、倒産の可能性が極めて低い大企業に務めるのを好む。それに引き換えに、外国は、自分が将来性を感じるベンチャーに勤めることや、自ら会社を立てることを好む。なんなら、大学入試の段階で有利になるために、学生の時からベンチャーを立ち上げる人もよくある話だ。けれども、このような思考であるからこそ日本は日本独自の文化を保つことができている良い点もある。しかし、それは裏を返せば、前進をすることが難しくなっているということだ。例えば、私の小学校は明治八年からあるという学校であった。そこでは、車で子供を学校に送ってはいけないというルールがあった。しかし、このルールにはちゃんとした根拠はなく、児童の自立心を育むためという極めて抽象的な理由であった。自分で何もできない小学生がバスで登校して育つ自立心も多少である。しかし、ルールを変えないことで安定を保つことができ、未だにそのルールは変わらず、コロナ禍バスで登校させるのが心配だった親から多数のクレームがあったと聞く。
第二の原因は、100点文化である。日本は昔から完璧主義な文化があり、その結果ものすごく細かいところまで気を使うという素晴らしい国民性になった。しかしその裏腹に、ミスを犯すことが悪いことであるという価値観でもある。スタートが満点であるという考え方である。よって、自分がやってみたいことを犠牲にしてまで完璧を追い求める。だから新しいものが増えないのである。
確かに保守的になることも悪いことではないのだ。昔からあるものが意味になっても存在し続けているというのはそれがないといけない理由があったからだ。けれども、挑戦なくして成長なしと言えるように、今まで慣れているぬるい環境で過ごすのではなく、自ら新しいこと、新しいものを見つけていくことによって、人だけでなく、社会全体も成長していくと思う;。なにより、その挑戦していく姿勢を次の世代に見せることがいちばん大切である。