心体

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 神経がいら立って眠れないときがあるが、これは神経の疲労が肉体との疲労とのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。したがってこうした場合は、肉体の疲労を神経のそれと同程度になるまで高めればいい。私自身、原動付自転車に乗っていた当時の体験がある。肉体は、エンジンにしがみついているだけだが、神経の方は、その同じ距離と時間を省略することなく体験しつくすのであり、したがって疲労のバランスは違ってくる。現在、それぞれのものが乖離して世界を体験し、乖離したままではそれぞれ疲労を課せられ、そのバランスが崩れつつある点に問題があるのだ。

 心と肉体、どちらも進行していくような生き方をすべきだ。 

 第一の方法は、一日の中で体を動かす時間を設けることだ。僕は夏休み、少し偏った生活をしていた。主に、友達と丸一日遊ぶ日と、ずっと家にいる日の二つだ。友達と遊ぶ、というのも、ほとんどが外で体を動かしまくる遊びだ。家にいるときは、テレビや読書、勉強などをしていた。外に出ない日もあったと思う。友達と遊びまくった日は、体を動かし切った後の解放感や、達成感のようなものが残る。そして、す~っと力が抜けていく気がして、とても気持ちがよかった。一日やり切ったという感じである。しかし、ずっと家にいた日は外に出ない分、良い時間を過ごしても、時間感覚が変になるのだ。そのため、一日経ったという実感がない日が多かった。ここから、人間の生物的な本能がみえた気がした。やはり生物は、外で体を動かして活動しなければならないのだ。

 第二の方法は、自分の中に、明確なものごとが残る経験を積むことだ。最近学校の国語の授業で、消費と浪費の違いについて、贅沢をとりもどすという教材で学んだ。消費は、ものの記号や観念を受け取ることだ。例は、SNSのリアクションなどだ。それに対して、浪費は、ものそのものを受け取ることだ。例は、おなか一杯ご飯を食べることなどだ。そして、今の社会は、消費社会となりものそのものを人々が受け取れないため、満足を得られず、大量生産・大量消費の世の中になってしまったという内容である。それに関し、ヘンリー・デイヴィット・ソローというアメリカの詩人がいる。この人物は、浪費の生活を体験した。人は、必要でないものに人生の大半を使っているのではないかと思い、実験を始めたそうだ。アメリカのウォールデン湖に小屋を建て、二年間そこで生活した。完全な自給自足の生活で、余った時間は、散歩、読書、観察、思索にあてたそうだ。そのソローはこう名言を残している。「何もない時間こそ、人間を人間にする。」僕も強く共感する。ソローの子の生活は、心と肉体が一緒に進行した先にあるものだろう。そして、何もしない時間こそ、人間を自然へと導いていくのだと僕は思う。

 たしかに、保とうとするのではなく、環境に合わせようと自分たちが変わっていくための工夫を考えることも大切かもしれない。しかし、人間とは、人間という枠組みでとらえるべきものではなく、れっきとした自然の一部であり、そのなかにある生物だ。だから、今一度、原点に戻って考えるべきものであり、生物として大切なことを忘れてはならない。だから、心と肉体、どちらも進行していくような生き方をすべきだ。