実感を伴って

   高1 ヨーヨ(waoho)  2025年12月3日

 神経の疲労と肉体の疲労のバランスが崩れると、人は危険を正確に判断できなくなる。筆者は原動機自転車の体験を通し、距離感や恐怖が現実とかけ離れる過程と、その不安が内面に潜むことを描いている。私たちは、心の実感の持てる生き方をするべきだ。

 そのための方法として第一に、バーチャルな世界よりも、自分の手足を使った実感のある世界を体験することである。近年、ゲームやSNSの普及によって、私たちは画面を通して多くの成功体験を得られるようになった。そこでは、努力と結果との関係が単純化されており、一定の行動を取れば成果が数字や順位として即座に示される。そのため、達成感を得やすいという利点がある一方で、その感覚が心の奥深くにまで定着しているかどうかについては、疑問が残ってしまうと思う。たとえば、僕自身『フォートナイト』というバトルロイヤルゲームをプレイしていたとき、立ち回りや操作を工夫することによって順位が上がり、自分の成長を比較的容易に実感することができた。しかし、その達成感は試合が終わることによって次第に薄れていき、もう一度勝ちたいといったような感覚が生まれ何度も遊びたくなる。一方で、現実の世界において部活動や人間関係に向き合った経験は、失敗や後悔を含みながらも簡単には消えず、時間が経った後にこそ、自分の判断や行動を支える感覚として残っている。この違いを振り返る中で、心の実感というものは、結果の分かりやすさによって生まれるのではなく、自分の体や感情を通して積み重ねられた過程によって形成されるのではないかと気づいた。したがって、便利で安全な仮想世界にとどまるのではなく、不確実であっても現実の中に身を置き、自らの感覚を伴った経験を積み重ねることが重要なのである。

 第二に、新しい時代に対応した実感を意識的に育てていくことも必要である。実感のある生き方とは、必ずしも過去の方法に戻ることを意味するわけではない。時代が変化すれば、人が世界をどのように感じ取るか、その在り方もまた変わっていくからである。確かに、昔ながらの価値観や経験には学ぶべき点が多く存在する。しかし、それのみに固執してしまえば、新しい社会の中で生きる感覚を十分に身につけることは難しいだろう。たとえば、15世紀半ばにヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を実用化したことは、人々の知識の得方に大きな変化をもたらした。それまで知識は、直接の体験や口伝によって伝えられることが中心であったが、印刷物の普及によって、多くの人々が文字を通して世界を理解し、実感するようになったのである。当初は、顔を合わせずに学ぶことに違和感を覚える人もいたと考えられるが、結果としてそれは人類の思考の幅を大きく広げることにつながった。現代においても、AIやデジタル技術の進展によって、私たちの生活環境や体験の形は急速に変化している。だからこそ、それらの技術を無批判に受け入れるのでも、全面的に拒絶するのでもなく、それらを通して自分が何を感じ、どのように現実と結びつけていくのかを考える姿勢が求められているのである。新しい時代にふさわしい実感とは、便利さに流されることではなく、変化の中で主体的に意味を見いだす力であるといえるのではないか。

 確かに、効率的で失敗の少ない世界に身を置くことは楽であり、安心感も得られる。しかし、「実感のない成功は心に根を張らない」というように、手応えを伴わない経験は、人を内側から支える力にはなりにくい。結局のところ、私たちはバーチャルか現実かという単純な二択にとらわれるのではなく、自分の感覚を通して確かに生きていると感じられる経験を、どれだけ積み重ねていけるかを問い続けるべきなのではないだろうか。