数年前のことに

   小5 あこおす(akoosu)  2025年12月4日

  数年前のことに

 食事というものは、いろいろな条件に制約された文化という構造体の重要な部分であって、何をいつ食べるか、それをどう食べるか、食べていけないものは何か、といったことに関して、どの国の食事にも、さまざまな制限や規則が習慣として存在する。文化の単位をなしている個々の項目というものは、一つ一つが、ほかの項目から独立した、それ自体で完結した存在はではなく、ほかのさまざまな項目との間で、一種の引っ張り合い、押し合いの対立をしながら、相対的に価値が決まっていくものである。私たちが、外国語を勉強する際にも、いま述べたような具合に、自国語の構造を自分ではそれと気づかずに、まず対象に投影して理解するという方法をとりやすい、だからいろいろと食い違いが生じてくるのも当然である。

ぼくの通っているアメリカの学校は、給食を外で食べる。ぼくがアメリカにきたときは、すごくウキウキしながらピクニックの気分でご飯を食べていた。けれど、もう四年もたつと外で食べるのが嫌になってくる。例えば、鳥のフンやごみであまり清潔ではないし、外にいるので、暑かったり、寒かったりもする。このような理由で僕は給食を外で食べるのを楽しみとは思わない。しかし僕は、一つだけ良い点があると思う。それは、ご飯をこぼしたり、落ちたりしても、少しなら自然に戻るのを待つだけでよいからだ。

 ぼくのお母さんは、海外、アメリカのレストランでの一人分の量が多いと言っていた。いつも近くのレストランに行くとぼくと、お母さんは大体の時ボックスという残ったものを持って帰れるものをもらう。そのボックスで持って帰ったものは僕の昼食や夜ご飯のおかずになるのでフードロスやお金の無駄にもならないので、ボックスは日本のレストランにも置いておくべきだと思う。しかし、逆に僕のお父さんや、周りのアメリカの人は残さずに食べているので、もしかしたらボックスはぼくたちみたいに小食で、アメリカ人ではない人のためなのかもしれない。

 ぼくはこの長文を読んで、食べ物の文化は国によっていろいろと違うということが分かった。ほかにも、地域によって食べ物の文化が違うので学ぶ際は気を付けるということも分かった。ところ変われば品変わるということわざがあるように行動や、衣服などだけではなく食事にも地域によっての食べ方があるということを学んだ。