「今日の都市生活に」
中1 あさくに(asakuni)
2025年12月2日
要約:行列というものは需要と供給で構成された、いわば「暗黙の了解」なのである。これらは需要と供給の二つのバランスが崩れたときに起こる現象だ。このような「社会のロジック」は先着優先の原理なくては効果がない。実際たまの国では市役所で皆が横一列に並び、対処しやすいものからかたずけているのだ。この良くできた「ルール」が作動しているので、ちゃんと誤作動なく正常運転できているのだと思う。このような次々出てくる問題をを一つ一つ解決する発想は近代事務処理の根本的な考え方に似て、確かに根ずていると思える。この通り、行列を通して工業化された社会が近代民主主義から派生したとわかる。
私は行列に並ぶかどうかは個人の判断だと思う。先程「要約」の部分で唱えたように行列は社会の需要とその企業の供給によって作られている。なので自分の欲がその商品やサービスに値しなかったら、そもそも行列の一部になる時点で「おかしい」とまでは言わないが、不思議だ。ただし、例外も存在する。その中の一つは多くの人の価値判断が一つの商品やサービスに焦点が当たってしまう時だ。その時に初めて「行列」を超えた「社会現象」となるのだ。知名度が最も高い需要と供給のアンバランスで生まれてしまった社会現象は2000年代前半で起きたwindows社会現象なのではないか。実際に250億ドルの利益を上げた一時だったが人々は狂ったのかのように終わりの見えぬ列に並びそこまでして欲しいwindowsを手にしていたというなんとも信じがたい話。このような社会現象はホームランボールを取ろうとしている野球ファンにどこか似ていると私は説く。自分の応援しているチームの打者が打った打球が自分の方向にすごい速さでやってくる。自分の周りの席の客も「我が先」と言わんばかりに手を伸ばす。この需要と供給が成り立っていないのに誰も退かない状態は共通していると思った。このように個人の価値判断が行列の出現を左右する大きな要素となる。
二つ目の理由として、長い行列に並ぶと個人のチャンスが均等になるからだ。近代の行列は長い列に並んだら、必ずと言っても過言ではないほど一対一で見るまたは買う機会が確実に設けられる。私の個人的な体験として、2025年大阪・関西万博のアメリカ館に行ったとき「月の石」を見るため一時間弱ほど並んだのがすごく印象に残っている。最初に列の最後尾に足を運んだ時、「こんな長い列をこの暑さの中で待つのは無理があるわー」と思った。それもそのはず、あの日の私たちが並んでいた時の時間帯では体感気温が38度弱だったのだ。家族で話した結果、「列は長いが最初の大阪・関西万博の時も展示された「月の石」をどうしても見たい」という結論で並んだ。やっと中に入って見る時が来たとたん、スタッフさんが「先に行ってください」と何度も言われ「見れた」という実感はさほどわかなかった。ほとんど堪能できなかったのは心残りだが、確かに数秒だけ「月の石」は私の物、1対1の時間が与えられた。これはサービスだけではなく、商品でも見られる「お約束」だ。商品を目当てに並ぶのは動物園のパンダとみるために列を作るのよりもより複雑だ。なぜなら、企業が混ざっているからだ。企業は「お客様」に商品を買ってほしいため、長時間並んでくれた客の要求を必ず満たさないといけないのだ。このような一種の「心理現象」で客は絶対にその商品が手に入る場合が多い。よって、行列には必ず願いがかなう「掟」があるのだ。
このように行列に並ぶのは個人の目的や価値判断によるが、個人のチャンスが均等になるのでいいと思う。確かに、社会のムードに飲み込まれ、トレンドを満喫するのも重要で楽しいと思うが、トレンドや流行はあくまで一時的なものであり、過ぎてしまった後のものは事実上、「無駄」になってしまう。この状況を私は「赤字」と呼んでいる。金銭的後悔が一時の楽しみを上回り、結果的に損をするのだ。フランスの小説家と哲学者のジャン=ポール・サトルが「私たちは私たちの判断だ」という名言を残している。これは私が最初に挙げた「行列は個人の価値判断によるものだ」という考えに似て、今の自分は自分の価値判断により作り上げられたものであり、それももちろん行列に並ぶ自分も対象だ。社会に流されやすい今の世だが皆様は何を欲し、何のために行列に並びたいですか。