勉強のやり時

   小6 ゆき(aonari)  2025年12月4日

 日本の漢字には音読みと訓読みがある。「べんきょう」というのは音読みだが、これを訓読みにしてみると「つとめしいる」と読むことができる。つまり、「勉強」には、「学問につとめはげむ」という意味の中に、 何かを無理じいするニュアンスがふくまれるため、はじめからいやな印象がつきまとっているだ。こうした背景から日本では、学問がただ単に「つとめ、しいる」作業として考えられ、めんどうくさく、たいくつで、つまらないものといったイメージが強くなってしまったのだと思う。

 勉強をする前はものすごく億劫なのだが、いざやり始めると、なんとも思わなくなってきて、最終的に無になる。他にも、勉強をしろと言われると、やりたくなくなり、何も言われないと、やらなければいけないような気がしてきて勉強する。多分これは小学生のあるあるだと思う。でも、やり始めるまでが問題なのであって、いざやり始めると、意外とすらすら解ける。つまり、やり始めるきっかけさえあればできるのである。だが、なかなかそのきっかけが作れずに、勉強の前にダラダラしてしまう私のような人もいるのではないだろうか。そのような人は、これが終わったら○○ができるなど先のことを考えてみてはどうだろうか。実際に、これが終わったらゲームができると思って

 母が中学生の時、公民の授業が面白くなかったそうだ。公民は、選挙の仕組みなどを教わる教科で、興味がまったくなく、退屈だったそうだ。一応テスト勉強はするが、自分の生活とあまりつながっている意識が持てなかったらしい。大人になって、自分の一票で政治を動かすことができるということを知って、公民が、知っておかないといけない知識だと実感したそうだ。

 食べ物に食べごろ、旬があるように、勉強にもやり時がある。私はわからないことや単語などがあると、疑問がわいてきて、すぐに国語辞典で調べる。思い立ったが吉日ということわざがあるように、疑問に思った時、知りたいと思った時、勉強したくなった時が勉強のやり時である。人間にとって勉強とは、自主的に取り組むものである。つまり、勉強しろと言われてやるのは本当の勉強ではない。勉強という名目の、上澄みだけをすくったものでしかないのだ。それでは身につかない。人間は、知りたいと思って、自分で調べたことが一番身につく。人は、知っていると思いがちだが、自分が知らないものは世界に限りなくある。それなら疑問に思って、知りたいと思った時に、その場で調べないと損だ。私も何か知らないことがあったら、調べてみようと思った。