食べ物と文化の関係

   小5 あえたし(aetasi)  2025年12月4日

 どの国の食事にも、さまざまな制限や規則が習慣として存在するが、同一の食物の食事全体における価値が、文化によって異なるときに、難しい問題がおきる。筆者が外国人の家庭で、白いご飯を見ておかずも一緒に食べようと思った失敗は、外国の食文化の構造を考慮せず、日本の食文化の構造に従い日本的な価値を与えようとしたことが原因だ。文化の単位をなしている個々の項目は、他の様々な項目との間で相対的に価値が決まっていくものだ。これは食文化だけでなく、外国語を学習する際にも同じである。自国語の構造を自分では気づかずに、外国語に投影して理解するという方法をしていると、色々と食い違いが生じてくるのも当然といえる。

  ぼくが、この話を読んで印象にのこったのは、白いご飯という同じ食物でも国によって意味が異なるのは、それに価値を与える全体の文化の構造が違っているからだということだ。

  台湾の主食は日本と同じでお米だ。台湾の給食では、みんな自分の食器をもっていって、自分でよそって食べる。ある日ぼくが取り皿とお椀をもって、ご飯とおかずを別々に分けてよそった時のことだ。先生に「なぜ分けてよそるのですか。他の子を見てごらん」と注意された。他の子はみんな大きなお椀にご飯とおかずを一緒によそり、どんぶりにしていた。だがぼくは家ではご飯を汚すのはダメだと言われているし、味が混ざるのも嫌だし、どちらに従うかとまどった。

  台湾のおばあちゃんの家へご飯を食べに行ったときのことを思い出した。おばあちゃんの家では大きなお皿から、皆でとりわける。一人一つ大きな皿とお碗が配られて、お茶碗とスープをよそるお椀の区別がない。お母さんは、ご飯とスープをどちらも食べたいのに、お椀が一つしかないのが不便だし、取り皿を一つしかないから、お皿が汚れていくのが困ったと言っていた。台湾人のお父さんは「ご飯にのせたら、うまいな」ともりもりとご飯をかきこんでいた。きっと、台湾の料理は味が濃いし、ご飯に合うおかずが多いから、みんなご飯にのせて食べるのではないかと考えた。一方、日本食は味が繊細だから、別々に味が混じらないようによそる必要があるからではないか。さらに台湾人はよく合理的に考えるので、洗い物を少なくできるから一人一つのお皿とお椀なのだ。しかし日本は、盛り付けや作法をとても重視しているのだ。日本は食事の作法が多いから、外国人が日本に来て慣れるのが大変ではないかと考えた。

  台湾もお箸で食べる国だが、日本とは違うところがある。ぼくはいつもご飯の前にお箸やお椀を準備するが、台湾ではお父さんやお母さんの箸など、誰の箸と決まっていないから、全部同じ箸を置いていくだけだ。

日本のおばあちゃんの家に行ったときのことだ。夜ごはんができたよと食卓へ呼ばれていくと、おばあちゃんがぼく用のお箸とお茶碗を用意してくれていた。ぼくは、初めての自分のお箸とお茶碗を見て、すごく嬉しくなった。なぜなら、ぼくも一人前の人として認められた感じがしたし、おばあちゃんが自分のために選んでくれたからだ。

  なぜ日本は自分だけの箸があるのかと不思議に思い調べてみると、個人専用の箸が決まっていることを「属身具」とよび、日本の歴史と文化に理由があることが分かった。一つ目は、宗教的・精神的な理由だ。古来日本では、お箸には使った人の魂が宿ると信じられていた。また食事は神様と共に行う神聖な儀式と考えられており、個人専用のお箸を使うようになったのだ。二つ目は、日本人の衛生観念の高さだ。日本では古くから口をつけるものを共有しないという感覚があり、清潔さを重んじる日本では個人専用の箸が自然と定着していった。三つ目は、江戸時代から明治にかけて「箱膳」による自立した食習慣があったことだ。一人一人が自分専用の食器セット(箱膳)を持つのが一般的だったので、お箸だけでなくお茶碗など個人の食器を持ち管理する習慣ができたのだ。

  ぼくは、日本と台湾の文化は異なるけれど、どちらも理にかなっていて、どちらが良いか悪いかを考えなくてよいと分かった。