私が、文章を書くことで
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年月日
文章を書くことでやっと生活出来るようになった頃、言葉遣いについて時折注意して下さる二、三の先輩があった。多忙な方達であるから、私の文章など目にとまる機会はなくても当然、もしも目にとまれば、それだけ僥倖というものだと思っていた。反省と、訓練、謙虚さと、自惚れ、そのどれが欠けてもいけないと思うのはこの期に及んでの認識で、経験の浅いうちはどうしても自惚れが先行する。そういう者に対して、あえて苦言を呈し、叱って下さった方々をかえりみて有難く思う気持ちは強くなるばかりである。出来るだけいい加減にではなく運用しようというのは、出来るだけいい加減にではなく物を見よう、物と自分とを関係づけようという生き方のあらわれにほかならず、そうであればこそ言葉遣いに対する注意は、先に生きた大人がまず子供に対して行うべき大切な義務の一つかと思う。だから、叱るべきところはしっかりと叱るべきだ。それが相手のためになる。そのために方法は二つある。
そのためには、自分自身に対しても厳しく生きている必要がある。人間は自分でコントロールしなくても楽な道へと進むことができるが、厳しい道へ進むことはできない。だから、自分自身に対して厳しく生きていくことで高い目標達成や自己成長、責任感の向上に繋がりより良い自分を求めることができるようになるだろう。また、自分ががんばっているときには、叱る言葉にも気合が入る。例えば、ワークの演習問題で解答を丸写ししながら学習を進めていたとしよう。丸写しすると学習が早く終わり、ゲームで遊んだりテレビを見たりすることができる。しかし、この学習方法は全く自分のためになっていない。だから時間が多少かかっても自分の力でどこまでできるかを試してみることが大切になってくる。これも自分自身に対して厳しく生きていくための一つの方法だと思う。
また第二の方法として、もっと子供をしっかり叱る社会を作るべきだ。ギリシア時代の書物にも、「今の若者はなっとらん」ということが書いてあるそうだ。また、日本の川柳にも、「売り家と唐様で書く三代目」という言葉がある。豊かな社会になると、子供が次第に甘やかされる傾向は洋の東西を問わない。簡単な例で例えるととても元気のいい犬がいつもはリードで繋がれているが、しっかり叱る社会がなくなるとリードが切れて自由自在に動き回り、最悪の場合二度と捕まえることができなくなる。子供は叱られて、自分なりに反省して少しずつ大人へとなっていくと思う。
確かに、体罰復活のような極端な叱り方はかえって逆効果になることもある。しかし、年上の者は社会的な責任として、自分よりも下の世代の者をしっかり叱る必要がある。獅子は子供を谷に突き落とすと言う。人間は獅子よりも立派な叱り方をしなければならない。叱ることは、相手を否定することではなく、本当は相手を肯定することだ。