チャンスに備えて
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早すぎず、遅すぎず。まさにこの時というタイミングがそっ啄の機である。我々の頭に浮かぶ考えも、その初めはいわば卵のようなものである。そのままでは雛にもならないし、飛ぶこともできない。温めて帰るのを待つ。頭の中に卵が温められていて、まさに孵化しようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それでひながかえる。人間なら誰しも何かのきっかけの訪れは受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの違いに過ぎない。勉強したことを機会あるごとに復習していると、知識がおのずからほんものになって身につく。学んでときにこれを習う、そっ啄の機はいつやってくるかしれない、折に触れて立ち返ってみる必要がある。
私は、「そっ啄の機」でなにかインスピレーションをうむには、事前の努力が必須だと思う。その例として、私が一年生の時のことが挙げられる。当時、私は学校の授業で意見を発言したかったが、旨く発表できなかった。その次の日から、私は母と、家で話すことを準備するようになった。その下準備のおかげで、意見はできたが、手を挙げられなかったり、分かりやすく説明をすることができなかった。しかし、二年生になると、先生の話している様子や、友達を見て、解説のコツがつかめてきた。どの表現が適切か、どの順番で話すのが適当かを他人を研究することで学んだ。今このことを思い返すと、たくさん発言をしている私がこんなだったとは信じにくい。でも、今の私がいるのは、一年生の時に母と下準備をしたおかげだろう。説明の仕方だけわかっても、私は即興で話すのが苦手だったから、意味がなかっただろう。二年生の私に『そっ啄の機』が訪れたのは、それまでの私のおかげだろう。それがなかったら、チャンスを無駄にしていたに違いない。『思考のそっ啄』について、長文では『卵』と表現しているが、私はまるで『植物』のようだと思う。せっかくの肥料と水があっても、種がなければ目が出ない。そして、世話をしなければ枯れてしまう。結果的に、肥料などが要らないような大木に育つ可能性もある。
父は、チャンスがあったのに、やらなくて後悔していることがあるらしい。それは父が小さいときのことで、合唱コンクールの指揮者決めの時のことだ。父は、指揮者をすすめられていたらしいが、立候補したのが女子しかいなかったことや、恥ずかしかったこと、今まで練習をしていなかったことなどと、色々な理由がのしかかってきて、引き受けられなかった。でも、後から思い返してみると、やった方が経験になったし、チャレンジすればよかったと悔んでいるらしい。それを聞いて、私はせっかくチャンスがあったとに、練習していなかったせいで無駄になってしまっていると感じた。また、そっ啄の機とは難しい。チャンスが巡ってこないこともあれば、貴重なチャンスが訪れても、準備ができていないこともある。
備えあれば憂いなしということわざがあるように、日ごろから準備をしていたら、チャンスが巡ってきた時に物にできるということが、分かった。私も、一つ一つのことに真剣に取り組んで、チャンスをつかみ取り、活かしたい。