人が公園を生かす

   高1 ヨーヨ(waoho)  2026年1月3日

 庭は原始社会では共同生活の中心であり、祭祀や政治の場でもあったが、時代が進むにつれて権力者の私的空間となった。日本では平安以降、鑑賞を重視する庭園文化が発達し、庶民から切り離された存在となる。近代になると公園として再び公共性を持つが、庭本来の生活との結びつきは弱まっている。公園は単に整備された緑地として存在するのではなく、人が使い、関係を生み出す場として再評価されるべきではないだろうか。

 そのための方法として第一に、そもそも公園は何のために存在しているのか、その目的を改めて考える必要がある。公園は景観を保つためだけの施設ではなく、人々が体を動かしたり、語り合ったり、時には衝突しながらも、他者と共に過ごす経験を得る場である。確かに、安全の確保や周囲への配慮は重要であり、一定のルールは欠かせない。しかし、規制を重ねるあまり、何もしてはいけない場所になってしまえば、公園は本来の役割を果たせなくなってしまう。公園の存在意義を、管理のしやすさではなく、人がどう使うかという視点から捉え直すことが求められている。たとえば、僕がよく利用していた近所の公園では、以前はボール遊びが全面的に禁止されていた。そのため、子どもたちは公園に集まっても遊具の周りを歩くだけで、次第に足を運ばなくなっていった。しかし、ボールで遊びたいという意見を受け入れた管理者によって、ボールの使用が認められるようになると、公園の雰囲気は大きく変わった。夕方になると子どもたちが自然と集まり、楽しく活気のあるものになったのである。この経験から、公園は守る対象であると同時に、「使われてこそ価値を持つ空間」なのだと実感した。

 第二に、実際に多くの人が公園を活用できる機会を、意図的に作ることが重要である。なぜなら、人が集い、活動する経験を通してこそ、公園は共同の広場として機能するからである。この点を示す歴史的事例として、19世紀のイギリスにおける公園整備が挙げられる。産業革命期、都市部では労働者が過密な環境で生活しており、緑地は一部の上流階級の私有地に限られていた。しかし、1847年に開園したロンドンのバーケンヘッド・パークは、階級を問わず一般市民に開放された公共公園として設計された。これにより、多くの市民が散策や集会、余暇活動に参加できるようになり、都市生活の質は大きく向上したとされている。それまで限られた人のための空間だった緑地が公共の場として再定義されたことで、公園は社会を支える重要な役割を担うようになったのである。

 確かに、公園を自由に使えるようにすれば、騒音やトラブルが発生する可能性もある。しかし、「自由とは、放置されることではなく、共に生きるための規則を持つことである」という言葉が示すように、公園を眺めるだけの場所にとどめるのではなく、人が使い、関係を築く場として開いていくことが、これからの社会に求められているのである。