産業革命以来、機械は
中1 あさくに(asakuni)
2026年1月2日
要約:産業革命は人々に無数の夢を見させてくれた。機会は人間の幸せに、技術的進歩は人類の幸福に。これは絶対的な未来だと思われてきた。だが、まだ決定的な結果は無かったのだが、人類が月に到達することが重要だと思われた。しかし、最近はいざ到達してもまだまだやるべきことがあることを知り、人はやっと工学的思考に明確は「フィニッシュライン」は無いと気が付いた。このように、「機械文明が世界を豊かにする」という思想も終わりが見え始めたときに、生物学が輝くそうだ。
私は建築のデザインまたは外見は整いすぎない方がいいと思う。その第一の理由として、完璧すぎたら掴みどころのなさに、なじめないと思うからだ。これは私の個人的推測だが、人間という生物はどんなものにも「上」の立場にいないとどうも落ち着かないのだと思う。この現象は多分大昔私たちホモサピエンスがまだ二足歩行の猿だった時の名残りだと思った。これは猿に値するだけではなく、動物全種にも当てはまることだ。自分よりも強い奴には支配されるまたは食べられる。だが弱い奴は自分に害を加える恐れはないし、自分が食べるかもしれない。このような生物本能・ロジックの残りのため、上司または教師と一対一になったら緊張するのではないか。私は学校では問題児ではないが、万が一教師に呼び出され、個室で一対一で話さなくてはならい状況に侵されたら、直ちに去りたいし、逃げたいと思うだろう。だが、一学年、二学年下の生徒とは気軽に何のプレッシャーもなく話せる。今となり、人間は他の「動物」と一線を隠すようになったが、もともとは「食べ物のため、自分そして子孫の繁栄のために動いていた物」なのだ。もともとは緑に囲まれた、自然豊かな森などですんでいたのだ。技術的にはそこら辺の野獣とは桁違いになったが、やはり本能までは変えられなかった人間。自分の知っている、馴染みのある家の形や性質でないと自分がその物の「上」だと思えず、そこに住むことについての気が乗らないのだろう。例えば、最近よく未来映画なので見るやたらと丸みを帯びた建造物・乗り物だ。現代だったら、かくかくしたビルや薄汚れの乗り物なのだが、それだったらその物に「無駄」があるので人は批評できるのだ。だが、典型的な未来の建物などではそうはいかない。それというのも「無駄」や「余分」が無いのだ。「そんなことはない。『あの建物は丸すぎる』と批評できるじゃないか」という意見も尤もだ。しかし、それはあくまで人間の感想・感性に当てはまらない物だけであり、「どこか無駄なものがありますか」と返せば、反論もできない。そうしたら人間は面白いことに、その建物・乗り物に近づかなくなるのだ。それは、自分の手に負えない物だと知り、生物的本能で「それに近寄りたくない」という心理が働いたのだ。
二つ目の理由として、たとえ「自分の夢だったから」などの理由で近代都市にすみ着いても、人は慣れないと思うからだ。これは私の憶測だが、自分の近代都市に対する夢、理想、尊敬が自分の日常生活を上回り、逆にそこに慣れず、不快感を覚えるのだと思う。手塚治虫の「火の鳥」や藤子・F・不二雄の「ドラえもん」などの未来を設定として描かれている漫画の読者は共感してくれると思うが、そのような漫画ではやはり、現代には無い技術を駆使しながら、高層ビルで優雅に暮らしている人々などが記されている。このような漫画を一目見てしまうと、どうしても「未来へ対する憧れ」が芽生えてしまうのだ。「火の鳥」や「ドラえもん」漫画界の名作で時を超えて読まれている。これは手塚プロダクションや藤子・F・不二雄プロなどには素晴らしい現象だが、同時に「未来はいいなぁー」という夢を半永久的に与えていることになる。実際に漫画「ドラえもん」は累計発行部数は三億部を突破しており、その勢力は世界中に広がりを見している。これは私が「未来に対する夢」を持ってはいけないと言っているのではなく、「持っている間は良いが、いざそのような日がきたら、自分の思いが勝って、案外楽しめませんよ」と主張しているのだ。同じような状態が野球観戦でも見れると私は思う。毎回試合を見に行くときは、ホームランボールをキャッチする気満々で球場に入るが、ほとんどホームランは無いし、万が一ホームランになっても真逆のスタンドに行ってしまうのが好例だ。だが、そのような熱い思いが冷めて、心から去ったころに自分の方にやってくるが、隣の人などにキャッチされる。人の熱い思いが逆に邪魔をすることによって、人は現状を楽しめないのだ。
このように無駄のなさで居心地が悪くなることやいざ住みついても慣れないことから物の外見は整いすぎない方がいいと思う。今頃これを記すのもタイミングが違うが、もともと昭和の時代に生きていた人は今の我々の令和の暮らしを「未来」とし、夢見ていたのだ。けれども、いざ令和になるとほとんどが「これはまだ通過点」と解釈し、単純に「今」がどれだけ恵まれているのかわからない。ここにまだ工業的思考が生き残っているのだ。いざ人が「当時の未来」に来ると、「これはまだ私の考える未来からはまだ遠い」と信じ、何も思わずひたすら他人が技術を進歩させるまで待つ、いわゆる「人任せ大魔王」と化するのだ。その後本当に自分の想像する未来が来たら、自分の尊敬・思いが邪魔をし、馴染めない。ここまで拝見してくれたらわかると思うが、人はなんとも無邪気でハングリー精神の塊だ。この作文を通して、私は「工業的思考を撤去し、生物学的考え方を導入しよう」と述べているが、それでも人はもっと便利、もっと楽な未来のために走るだろう。というのも、生物学的考え方をたとえ取り入れても、歴史の繰り返しだと思う。なので、工業的思考一本だけではいけないと思うが、たとえそれが生物学的考え方と調和しても、人が自分の想像する未来に走る傾向は変えられない。かつてインドの宗教家、マハトマ・ガンジーは「この世界は人を満たすことはできるが、人の欲を満たすことはできない」と言ったことがある。これは私が言った二つ目の理由に似て、人の欲には終わりがなく、ひたすら進むことしかできないのだと解釈した。人は何とも複雑そうに見えて単純な生き物なのだろう。そういう人間の前へ進む精神はどうしても不可抗力なのだ。