世間にとらわれない
中1 あきたい(akitai)
2026年1月3日
社会は個人から成り立つものとされている。しかしながら、このような意識は明治以降に輸入されたものであり、現実の日本人の多くは、社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる、一人の人間として行動している部分の方が多いのである。世間と個人の関係について注目すべきことは、個人は自分が世間をつくるのだという意識を全くもっていない点にある。日本人の多くは世間の中で暮らしている。日本人の一人一人にそれぞれ広い狭いの差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次元においては快適な暮らしをするうえで必須なものに見えるが、その世間がもつ排他性や差別的閉鎖性は公共の場に出たときにはっきり現われる。僕は「閉鎖的で窮屈な「世間」にとらわれすぎるのは良くない。」と思う。
第一の理由は個人の意見がなくなるからだ。僕のクラスではみんながいつも同じ意見を持っているように感じる、家庭科の授業でクイズがあった際先生から「間違えたら恥ずかしい」と言う発言があった。その後野菜や肉、食品に関するクイズがあったらするとクラス人はみんなに合わせて手をあげていた。次第には誰も手をあげないと言うことまでに発展した。このようにクラスのような世間にいると全員が意見を統一し個人の意見が出にくいのだ。アメリカの中学校ではクラスに先生がきて教えるのではなく、自分たちでクラスを選択して先生たちのところに行くそうだ。僕はこのやり方だと世間ではなく、毎回メンバーが変わるので世間にとらわれずに済むと思うのだ。実際に日本人よりもアメリカ人の方が自分の自由な意見を持っている印象が僕の中ではある。実際に「アッシュの同調実験」と言う実験からは人間は周りの人に合わせる習慣があることがデータとして残っている。このように世間にとらわれすぎると個人の意見を持てなくなるのだ。
第2の理由はみんなと同じ視野でしか物事をとらえなくなるからだ。僕の先生はすごく厳しいなので授業のための教科連絡3日先まで終わらせないといけないのだ。他にも給食の配膳を13分以内に終わらせる。先生はある意味全員の視野を給食なら速さ、教科連絡なら先取りに向けていると思う。他の視野で言うと給食の配膳なら「正確につぐこと」「平等な量でつぐ」「残食をゼロにする」などいろいろな視野から物事を見ることができる。しかし僕のクラスでは視野は速さだけでこれは僕のクラス1年3組の世間に入っているからだと考えて良いだろう。他にも日本の世間ではマスクはつけておくべきだと言うことがコロナ禍では普通だった。そのことから「同調圧力」と言う言葉までできた。しかしアメリカでは「マスクを外そう、捨てよう」と言う活動があるほどそれぞれが自分の視野を持っていることがわかる。このように世間にいると同じ視野でしか物事が見れなくなるので僕は世間に問わられすぎないほうが良いと思う。
確かに仲間同士で助け合うことはよいことだ。しかし 「少数派であることを恐れるな。真実はいつも少数派から始まる。」
と言うマハトマ・ガンディーの名言があるように個人の意見や視点が変えづらい世間とらわれずに自分の意見や視点を自由に持つことが大切だと思う。