現代日本における宗教と民主主義
高2 ばにら(tokunaga)
2026年1月1日
2022年の安倍元首相銃殺事件から噴き出した統一教会問題は、日本社会における宗教と政治の関係を問い直させた。政権与党の自民党と件の新興宗教は、反共産主義の思想を共有し、やがて長期間の利害関係を確立させた。多額献金、信者の搾取、反社会的な教義は、2022年以降に新興宗教の懸念点として多くの批判にさらされている。それと同時に、宗教団体と政治の密な関係性は、民主主義を脅かす存在とも考えられるだろう。現に、政教分離とは民主主義国家の根幹に位置する論理である。しかし、宗教団体は戦後日本政治に根付いていることも明白だ。現に、創価学会を母体とする公明党は、二十六年間に渡って政権与党の一角を担ってきた。では、なぜ今になって政治と宗教の問題が糾弾されるのだろうか。宗教の政治参加を受け入れてきながらも、同時に否定する二重性。この一見矛盾する現象の原因を以下に考証したい。
第一の原因として、日本における信仰とは民主主義の現れであることが指摘できる。それは、戦前における宗教弾圧の反動として読み取れる。大日本国憲法下の日本において、信仰の自由は規制されていた。国家主導の神道的教義が是とされ、それが国民を戦争に駆り立てる大義名分とされた。だからこそ、終戦後の民主化のプロセスは、まさにこの教義を一層し、完全な信教の自由を与えることに重きを置いたのである。従来の思想を完全否定された日本社会は、新たな精神的安寧を求めた。この前提下で、昭和20年以降、創価学会に代表される新宗教は民主主義の自由を謳歌するかのように花開いたのだ。そのような意味で、宗教団体の繁栄は日本の民主主義化を証明するとも主張できるのである。事実、公明党を通した創価学会の政治参加の一理由として、日本における民主主義的な信教の自由の監視と保護が挙げられる。このような歴史的背景から、日本において宗教と民主主義とは必ずしも相反するものと見られないことが考察できる。
第二の原因として、日本社会の政治意思の弱さも推察できる。民主主義を明確に定義していないからこそ、日本人の宗教に対する曖昧な姿勢が説明できると考える。例えば、政教分離を徹底している国としてフランスが思い浮かぶ。ライシテの思想のもと、共和国の理念は政治と宗教の完全なる決別によって支えられている。私がフランスの公教育を受ける中で、この意識は常に感じられた。ヒジャブなどの、公共の場における宗教的シンボルの着用禁止は特徴的だ。実際に、フランス政治における宗教勢力の存在感は無いに等しいと言っていいだろう。この徹底的な排除は、フランス市民が民主主義を「教権から脱する」ことで勝ち取ったという背景から説明できる。1789年、1830年、1848年とフランスは三度も市民革命を経験した。この苦難の歴史の中で、王権は幾度も民主主義を倒そうとした。その力を担保するキリスト教権だったのだ。だからこそフランス共和国において、宗教的権力はそのまま民主主義の政治的な「敵」として定義されるのである。
しかし、日本の宗教観はフランスのそれとは全く対照的だ。多神教国家であることから、戦前の一時期を除いて、その政治権力は明確化されていなかった。日本における宗教とは生活習慣と一体であり、画一的な教義よりかは民族文化に根ざした倫理観によって形作られた。だからこそ、キリスト教権のような中心的宗教の圧倒的権力構造は確立しずらい。加えて、現代日本における民主主義とは、国民が自ら勝ち取ったものではなく、終戦後に米国の干渉によって成立したものである。日本人にも民主主義は「良いもの」であるという漠然とした感情はある。しかし、フランスのように「市民」全体が提唱し、定義し、団結して戦ったような歴史はない。日本人にとって民主主義は政治的「思想」ではない。それはむしろ「二度と戦争をしないため」、あるいは「国民生活を守るため」といった戦後日本の道徳観に近いのではないか。
ゆえに、現在に至るまで、日本における宗教と政治の距離感は明確には定義されず、「なんとなく」民主主義と融合していったと言える。だからこそ、宗教や政治を語るとき、日本人は道徳的か不道徳的か、を何よりも重要視するように思う。「道徳的」な基準を満たせば、それは是である。例えば統一教会問題のように、明らかに不道徳であれば否である。よく言えば柔軟、悪く言えば優柔不断の姿勢こそが、日本社会の民主主義であると言えるのではないか。
確かに、日本における政治と宗教の関係を考察するにおいて、最も機械的な力学は政教分離を定義する法律に見出せる。日本国憲法には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあるが、これは「国」が特定の宗教を優遇するのを禁ずるものであって、宗教人の政治参加を規制するものではない。だからこそ、強い資金力、大勢の信者を従える勢力が政治的立場を確立するのも可能なのだ。しかし、これはおそらく表面的な考証に過ぎない。現に、先述したフランスの政教分離法も、日本のそれと意味合いは変わらないのだ。すると、両国の対応の差を歴史的・文化的背景を用いて浮き彫りにすることによって、その本質が見えてくるのではないかと考えた。もちろん、日本においても宗教と政治の距離感を注視し続けることは重要である。しかし、だからといって一つの事件に基づいて宗教全般を非難したり、あるいは擁護することは本質を見損なっていると思う。信仰自体が宗教ならば、私たちは皆何かしらの神を信じる宗教人である。その「神」が純粋な意味の教義であっても、科学であっても、あるいは自分自身であっても、私たちは何かを信じながら生きている。だからこそ、信教に対しても、賛否の二極で押しはかるのではなく、変わりゆく日本の倫理基準に照らし合わせた慎重な運用が求められているのではなかろうか。