ステレオタイプ
高3 あかしか(akasika)
2026年1月3日
言語芸術と視聴覚芸術は、対立させられるのではなく、共通の課題を見出すことによって両者の独自性も発揮できる。新しく出会ったものを名づけ、言語の秩序の中に入れることで安全なものにしているという堅固な日常生活をパブロフはステレオタイプと呼んだ。言語を媒介にしないむき出しの事物は意味を持たないということに対して、映像論者は、眼があればなんでも同じように物が見え、抽象的思考に到達しえたというが、そうは思えない。映像価値は言葉に強い刺激を与えて活性化させるところにある。しかし、現代では映像が言語に刺激を与えるものではなく、ステレオタイプの発想の延長線上にいつつあることが問題だ。
対策としては、映像に対する批判を恐れないことだ。批判したりされたりすることで、新しい現実に出会えたり、言語を活性化するという映像の価値を実現することができる。例えば、原爆について扱っている映像があるとする。その映像では、原爆は悲惨なものという視点で構成されている。日本人は原爆は多くの人々に放射能の被害を与えたり、殺したりした悪いものと教わって育つため、悲惨なものとして扱うことで、日本人からの批判はほとんどなくなる。しかし、アメリカからの視点では、戦争を終わらせるためには必要なものであり、なかなか降伏しなかった日本が悪いという意見もあるだろう。もし、日本の原爆の教育でこの意見をもつ人のインタビュー映像を使ったら、かなり批判されるだろう。しかし、批判を恐れずにすべての意見を公平に扱うことで、映像はステレオタイプから抜け出せるのではないか。
また、もう一つの対策としては、映像や文章だけに頼らず、自分の目で見て判断することだ。日本は平和な国であり、第二次世界大戦の後から現代まで、戦争の舞台になったことがない。しかし世界に目を向けてみると、ウクライナとロシアが戦争をしていたり、シリアで内戦が起こっていたりする。日本はこれらの情報をニュースや記事で受け取る。ニュースや記事にはその作者の意図が入りやすく、すべてがわかるわけではない。そのため自分の目で見ることによって、自分の意見を正しく持つことができる。しかし、実際に現地に訪れることが難しい場合が多い。そこで、映像や文章を見ても、製作者の意図が入っていることを意識し、様々なものを見ることで視野を広げられるだろう。それぞれが自分の目で見たものを大切にしていけば、言語のステレオタイプがだんだん薄れていき、映像も変わってくるだろう。
確かに、映像や文章に作り手の意図が入ることは作り手は伝えたいことがあるから作成するため、避けられないことである。しかし、情報とは事実や意見を伝えるだけのものではなく、その後受け取り手にどう考えさせるかが大事なのである。作者の意図を受け取った後、批判しても良いし、同情しても良い。また、自分の目で見たものを共有するときも批判を恐れないことが言葉を自由にしていく。このような環境が映像の本来あるべき役割を果たせるようにすると考える。私は4月から法学部生になる。法学部では公正な判断が必要な機会が今より断然増えるだろう。様々な映像を見てステレオタイプな考え方から抜け、それぞれの主張を捉えていきたい。