世間にとらわれすぎないで
中1 なかすけ(nakasuke)
2026年1月3日
社会は個人から成り立つものとされている。したがって実状はどうであれ、それぞれの個人は、社会の構造、運営、将来について責任をもとものとして意識し、行動していることになっている。しかしながら、このような意識は明治以降に輸入されたものであり、現実の日本人の多くは、社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる、一人の人間として行動している部分の方が多いのである。「世間」という言葉が定義しにくいのは、世間は常に個人との関係においてその個人の顔見知りの人間関係の中で生まれているものだからであり、人によって世間が広い人も狭い人もいるからである。日本人はできるだけ目立たないように生きることが大切であると考え、自分の能力も必要以上に示さないようにする。日本人が何よりも怖いと思っているのは「世間」から爪弾きされることだからである。個人の性格にもよるが、世間の中で暮らす方が社会の中で暮らすよりも暮らしやすく、楽なのだ。日本人の多くは世間の中で暮らしている。日本人の一人一人にそれぞれ広い狭いの差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次元においては快適な暮らしをするうえで必須なものに見えるが、その世間がもつ排他性や差別的閉鎖性は公共の場に出たときにはっきり現われる。僕は、閉鎖的で窮屈な「世間」にとらわれすぎず、世間の考えに流されず、自分の意志を持って行動することが大切だと思う。
第一の理由として、個人の意見や見解を持ちにくくなり、自分の本質を見失ってしまうからである。小学四年生の頃、クラスでいじめられている子がいた。その子とは普段あまり関りや接点がなく、相談にのったり、話しかけたりしてあげることができず、ただ見守ることしかできなかった。もし、今ここで自分も世間の空気に対立してしまったら、自分にも被害が及んでしまう。世間に縛られて、自分は自分を守るために、行動をとれなかった。人は世間から省かれるのが怖いのだと改めて実感した。なぜ世間にとらわれすぎるのは良くないのか。それは、自己肯定感の低下や他者からの期待に応えるための生き方の偏りにあり、世間体を気にすることで、本当の自分を隠し、周囲に求められる姿に自分を無理やり適合させようとする行為が生じることで、自己肯定感が低くなり、外部からの承認に救いを求めるようになるからである。他者の評価を恐れず、自分の意志で行動することも大事である。
第二の理由として、世間一般的な視野でしか物事を見れなくなり、自分の目的が周囲の影響によって崩れてしまうからである。米軍による広島・長崎への原爆は正当化できるかというアンケートでは、日本では正当化できるが14%で正当化できないが79%、アメリカでは正当化できるが56%で正当化できないが34%である。このように、日本では原爆は悪いという認識が植えづけられている。僕もそれは正しいと思う。しかし、アメリカは原爆投下は仕方がなかったと言っている。それも正しいと言える。ならどちらも正しいのか。それは個人の意見によって決まる。日本の世間では原爆はよくないと思われているがそれが必ずしも正しいとは限らない。原爆の正当化の有無 はそれぞれ個人が決めていいのである。例えば、インターネットの口コミを見て、レストランを決めるとする。確かに、評価が高ければ、たくさんの人がおいしさを認めているわけで、すごいことは確かだと思う。だが、その他者の意見にだけ縛られていたら、自分の求めているものが何なのかわからなくなってしまう。そうなると新しい発見がなくなってしまう。そう考えると、口コミも大事だが、自分の直感や気分で決めるのも良いと思う。
確かに、集団で同じ意見や意志を持って行動し、協力し合うことも大切だ。しかし、「自分が考えるとおりに生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになってしまう。」という名言があるように、世間にとらわれず、視野を広げ、他者の意見も踏まえながら、自分の意志を大事にし、自分自身が社会の一員だという意識を持ち続けることが大事だと思う。