清書
高1 あおにま(aonima)
2026年1月4日
庭園は、それ自体が造形される空間だ。建造物であり、彫刻であり、また音響の遊びもあります。絵を置き、彫刻をあしらう。歌い、舞う、可能的な芸術空間だ。しかし、時代が変わるにつれて、その「庭園」は公共のものからプラベートの物へと変化していった。だから最近は公園の数が増えている。公園は漢字通り「みんなの園」すなわちみんなが自由に使える場なのだ。この本来の役割を踏まえると公園は、見るだけのものでなく、共同の広場として使えるようなものにするべきだ。そのために方法は二つある。
そのためには、何のために公園があるのかという目的を考えることだ。公園に限らず、世の中には、本来の目的からはずれて運用されているものが多い。なぜならほとんどの場合、多くの制度・道具・ルールは、作られた当時の状況を前提にしているからだ。しかし、社会や技術や価値観は日々変わり続けていて人によっても価値観などは変わってくることが多い。例えば学校で課題が出されたとしよう。課題の量は膨大で、帰ってきてから寝るまでの間ずっと作業を続けなければ終わらない程度の量だとしよう。本来は授業で習ったことを復習し定着させることが目的だが、課題の量が多ければ提出することが現実的な目的になるだろう。
また、もう一つには、実際に多くの人が公園を活用するという機会を作ることだ。公園は昔の庭園のような役割を持っているので多くの人が平等に自由に使え場所にするべきた。歴史的に見ても文化が発達するにつれてそれまで制限されていたものがより多くの人に利用されるようになったという例は多い。例えば、女性を土俵の上に上がらせてもいいのかどうかや、一昔前までは、船もトンネルも女人禁制だったが、今ではそういう制約はなくなっている。それにより、多くの公共のものが楽しく平等に使用されるようになった。だから公園も、多くの人が使うことによって更にみんなのものになるのではないか。僕の意見では老若男女多くの人が公園を利用することが本来の目的だと思う。
確かに、静かに見るだけの庭園というもののよさもある。しかし、これからの庭園や公園は、生活の中で生きたものになることが要求されている。花も団子もある公園が理想の公園と言えるかもしれない。公園とは、見物の対象である前に生活の場の一つである。また、公演の元祖は庭園と言っても過言ではない。だから、公園は、見るだけのものでなく、共同の広場として使えるようなものにするべきだ。