産業革命以来、機械は(清書)
中1 はななは(hananaha)
2026年1月4日
産業革命以来、機械は人々の生活を豊かにする打出の小槌の役目を果たすものだと思われて来た。そして、この進歩は人類の幸福につながるとも信じられていた。経済の高度成長にあっては、その目的を完成るつ一番有力な武器は、工学的な発想と工学技術であった。しかし、今その行きすぎがいろいろな面で見直されようとしている。これらを補うための最も有力な方法の一つは生物学的な発想である。これまでの建築は芸術性と工学的な技術に重点が置かれていた。ブラジリアは、それがよくわかる。ブラジリアはあらゆる技術を駆使し、二一世紀の夢の都市としてつくられたが、肝心の人が住みつかなかった。その理由は、いわゆる街角がなかったためだろう。整いすぎていた。あるがままの人間の臭さのよどみ、といったものが欠けていたのだ。私は整っている外観より、馴染みやすいことが大事だと思う。理由は二つある。
一つ目の理由は、整いすぎている環境よりも慣れ親しんでいる環境の方が落ち着くからである。動物達はどれだけきれいに整えても、かまわず自分の過ごしやすいように環境を変えるだろう。それぐらい自分の周りは扱いやすい方が良いのだ。人間にも同じようなところがある。例えば、服を着るときに、このように着ると良いというお手本があるとする。しかしこの方法で着てみると、自分には合わなかった。そうしたら、自分の着やすいようにアレンジしたり、服を変えてみたりと解決方法が出てくる。お手本のように着た方が、世間の人には受けるかもしれない。だからと言って、自分の着心地を最悪にする必要は全くないのだ。やはり人間は、自分が過ごしやすいように環境を変えてゆくのだ。
二つ目の理由は、整いすぎていると落ち着かないからだ。この前の冬休み、大掃除をした。そうしたら、過去最多に近い量のごみが出た。私の部屋にあったものの3分の1ほど捨てた。このぐらい捨ててしまうと、部屋がスカスカになる。掃除の前は、すごいぐらいにものが多くてごちゃごちゃしていた。きれいになりすぎて、落ち着かなかった。この部屋になれると、何も思わなくなるはずだ。友達の家に行っても同じことなのではないかと思った。友達の部屋が、きれいすぎるとかえって居心地が悪い時がある。足の踏み場もないぐらいに汚いと嫌だが、きれいすぎても落ち着かない。あまりにきれいすぎている環境で過ごしてこなかった人は、少し部屋が汚れている方がより過ごしやすいこともあるだろう。人が捨てるごみの量について調べてみた。一人当たり一日に850グラムから880グラムぐらい捨てているらしい。年末年始の大掃除の時期になると、1.5から2倍ほど捨てられるごみの量は増えているそうだ。自分の過ごし方での、良い塩梅を見つけることに重きを置くことが大切なのかもしれない。
確かに、見た目がきれいで整っていることは大切だ。見た目が良くないと寄ってくるはずのものも、寄ってこないことがあるかもしれない。しかし、「人は、どれほど完璧だったかではなく、そこでどう感じたかを覚えている」という、マヤ・アンジェロウの名言があるように完璧を求めすぎてはいけない。整っていることに執着してはいけない。自分の慣れ親しんだ環境、雰囲気をもっと大切にするべきだ。どんなにお手本を真似しようとしても、自分には合わないときもある。どんなに部屋をきれいにしても、落ち着かないこともある。これまでの人生にあった過ごし方を追求することが一番良いのかもしれない。だから、一番過ごしやすい形、落ち着く環境を作っていくことが大事だと思う。これからは、自分が楽に過ごすことのできる環境を作っていきたいと思う。