適切な緊張レベルの大切さ
小6 あこまき(akomaki)
2026年2月1日
「続いては在校生代表、、、」
私の足はすでに膝が笑う状態にまで達していた。皆は緊張した事があるだろうか。私の勝手な思い込みだが、大半の人は「はい」と答えるだろう。もちろん私もそのうちの一人だ。授業で発言する際や、クラスの前でのプレゼンテーション、試験、テスト、団体競技など様々な場面で私たちは緊張する。失敗しないだろうか。恥をかかないだろうか。そのような事が頭に浮かび、余計に緊張してしまうのだ。私は生きている中で、これ以上にないくらい緊張した事がある。それは、卒業式の在校生代表のそうじだ。名前が呼ばれるのを待っている私は、感動に包まれている中で、悪目立ちしないか、言葉が詰まらないか、期待に応える事ができるのかと、様々な感情が入り混じっていた。そのようなことを考えていたら、私の名前が呼ばれた。椅子から立ち上がり、歩き出した。壇上に近づくにつれて、心臓が飛び出てきそうになったのを今でも覚えいる。緊張とは、人にプレッシャーを与え、不安になる状態だと思う。自分の中で理想と現実のギャップがあり、自分の理想を求めすぎてしまっているから、余計に緊張してしまうのだと私は感じた。
皆さんは緊張のことをどう思い、どのようなことを知っているのだろうか。緊張は体が震えるもの。考えてしまうものだと思っていないだろうか。その答えは全て合っている。緊張とは身体や心が考えすぎてしまうストレスやプレッシャーに押し負けて反応してしまう状態のことだ。一度は皆、緊張というものは嫌だ消えてしまえばいいのにと感じたことはないだろうか。しかし、その考えはあまり良いとは言えないと私は思う。例を挙げてみよう。例えば、仕事で重要なプレゼンをしないといけなくなったとしよう。緊張がある世界線だった場合、失敗できないというプレッシャーから何度も資料を読み返し、想定質問への回答を準備する。本番は、心拍数が上がるが、脳が冴え渡り、鋭い質問にも即座に反応できるのだと思う。しかし、緊張がない世界線だったらどうだろうか。私の推測だが、「まぁなんとかなるだろう」と準備を疎かにし、本番もリラックスしすぎて話に締まりがなくなる。そして、予想外の突っ込みに対しても危機感が働かず、説得力に欠ける発表になるのだと思う。このことから、緊張がない場合、人は現在のようなモラルはなくなるという事がわかる。何に対してもなんとかなるだろうという精神になり、意欲などといった言葉がこの世からなくなると思う。
緊張はなぜ必要か。そんなことを考えたことはないだろうか。心理学者のロバート・ヤーキズとジョン・ドットソンが千九百八年に提唱していた逆U字の法則、ヤーキーズ・ドットソンの法則には緊張の大切さを教えてくれた。このヤーキーズ・ドットソンの法則は、覚醒レベル、いわゆる緊張やストレスとパフォーマンスの相関関係を表す法則だ。この法則について詳しく見てみよう。まず、低すぎる緊張の場合だ。この場合は刺激がなさすぎて、退屈や不注意、眠気を引きよこし、パフォーマンスの低下が見られる。次に適度な緊張の場合だ。この場合は最適な覚醒レベルのことで一人一人違う。集中力が高まり、脳のパフォーマンスが最大化されるのが特徴的な状態だ。最後に、高すぎる緊張の場合だ。この場合はパニックや過度の不安、あがり症を引き起こしてしまう。思考が停止したり、体が強張ったりして、パフォーマンスが急激に落下してしまうのだ。これがヤーキーズ・ドットソンの法則の基本のことだ。この法則から、適切な緊張は必要だという事がわかる。緊張のしなさすぎや、しすぎは良くないが、緊張は必要不可欠なのだと私は感じた。
人間にとって緊張とは肝要なものである。適度な緊張レベルを保つことで集中するゾーンに入る事ができたり、パフォーマンスの上向が見れる。もし、そのような事がなければ、危機感を持つことができない。緊張は、その対象に価値を感じ、全力で挑もうとしている証拠なのである。しかし、緊張しすぎてしまうこともダメだ。心身に影響があり、逆にパフォーマンスが低下してしまう。まるで料理の塩のようなものだ。過ぎたるは猶及ばザルが如し。何事もやり過ぎたり、度がすぎることは、足りないことと同じくらい良くないことなのだ。だから、何事にも、適切な緊張は必要不可欠なものなのである。皆も、自分にとっての最適な緊張レベルを見つけ、何かに集中してみてはどだろうか。
「六年間、ありがとうございました。」
そう最後の言葉を告げた時、大きな拍手が響き渡り、私はホッとしながら壇上から卒業式参加者を見渡した。