旅をする

   高1 あうては(auteha)  2026年2月2日

 私たちは未知と偶然の要素を多く含んだ旅に出る時、どこかへ行きたいとか何かを調べたいなどといった何らかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。旅先で見たものや聞いたものはしばしば私たちに新鮮な驚きを与え、旅先で出会った出来事はしばしば私たちに強い感動を与える。人間がもともと持っている生き生きとした感受性を取り戻すことである。普段の生活、日常生活のだせいから自己を解き放つことなのである。偉大な情念によって初めて、人間の魂は偉大な物事に到達しうるのだ。私は旅をするべきだと思う。

 第一の方法は情熱を持つことだ。ルーティン化した生活を日々淡々とこなすだけでは人生において最後に残るものは少なくなる。半義務化された仕事を毎日繰り返して一生を終えるのはつまらない。それよりも、小さな事、大きな事、あらゆることにおいて非日常を望み、変化を求め、冒険心や希望の封印を解き、身を委ねる方が生まれる喜びは大きい。その一つに旅がある。新しい場所、新しい文化、何もかもが異なる世界に触れられる。これは非日常以外の何者とも呼べないだろう。いつも通りに朝起き、いつも通りに学校に行き、いつも通りに帰る1日と、旅行先の新しい国で様々な驚き、感動、楽しさに満たされた1日、この時間的には全く同じものは自分自身にとっての重みという点で全く異なる。一方が一生に一度の経験の連続であるのに対し、もう一方は何日も何日も延々と続く同じような日々の一つに過ぎない。私たちは変化を求めようとすればいくらでもそれは可能である。帰宅中に大きな駅で散歩をしてみるだけでも新鮮な驚きが得られるだろう。肝要なのは、変化を熱望する情熱を持つことだ。

 第二の方法は打算的にならないことである。旅というのはとてもお金のかかるものだ。お金の事を考えれば旅をする時間で仕事をした方がよっぽど効率が良い。スマホを買えばお金を失う代わりにスマホを得られる。しかし旅というのは高額なお金を消費したところで何かを得るわけでもない。打算的に考えれば旅なんてしない方が良いのだ。けれども植村直己はなぜ五大陸の最高峰に登ったのか。加藤文太郎はなぜ冬の挑んだのか。冷静に考えれば危険極まりない行為である。エベレストの頂上に金鉱があったわけでももちろんない。彼らを突き動かしていたのは打算を抜きにした冒険心であったのだろう。リスクとリターンを冷静に分析すれば、命を危険にさらしたところで何も得られない冒険なんかには挑まない。しかし、自分のコンフォタブルゾーンを超えて、限界に挑戦することで、お金では得られない充実感、経験により人生を豊かで満足のできるものに作り変えていける。

 確かに日常抜きには非日常は成り立たない。日々の仕事があってこその軍資金だ。現代社会ではお金なしで移動をすることは極めて困難だ。お金があってこそ旅ができる。しかし、かといって日常から抜け出さず、非日常の世界をのぞいてみないのは非常に勿体ない。人生において大事なのは経験である。お金をいくら貯めておいてところで最期には自分にとっての意味失う。例えば私たちが車を買う時、実際には車によって得られる経験を買っているのだろう。そのように考えれば商品のあるなしに関わらず、旅をすることはそれ自体が唯一無二の意味を持っている。私は旅先で現地の市場に身を置いて日本とは全く違う雰囲気、ざわめき、人々の接し方に、色々な心に響くもの、感じるものがあることに気づいた。人生において最後に残り、意味を持つのは自らが経験し、蓄積されてきた数々の驚き、感動、悲しみ、喜び、怒りだ。旅をすることでしか得られないものが確かに存在している。