叱るということ
高1 あえたき(aetaki)
2026年1月4日
日常の言葉遣いについて自覚と誇りを持って叱るためには、叱る人自身の言語生活の訓練と充実が前提になる。言葉を大切に扱おうということは、できるだけいい加減にではなく物事を見よう、ものと自分を関係づけようという生き方の表れである。私たちは誠実に叱るべきである。
まず、第一の方法として、自分自身の行動に注意することである。よく大人は、子供の悪い点を指摘して叱ったり、何かを子供にやらせるために叱ったりする。しかし、子供のことを叱って、当の本人もできていない、なんてことはないだろうか。注意された子供からしてみれば、自分が叱られたことに対して大人ができていないのは理不尽の行動としか捉えられない。私の父もそのような例の一人である。家族みんなで出かけることとなり、朝7時くらいに起きねばならなかった時、なかなか起きることができず、布団にくるまっていた。すると、「早く起きなさい」と叱る声が聞こえてきたので、仕方なく布団から出ることにした。だが、布団を出て顔を洗いに行こうとした道中で見たのは、父がまだ寝ている姿だった。私に対して、早くおきすようにせかしておきながら、自分のことはお構いなしであったのである。結果的に、私は布団から出たが、こう言った理不尽な叱り方は説得力が全くなく、子供にも響かない。誰かを叱るときには今一度、自分の行動を省みることが大切である。
第二の方法として、丁寧に叱ることのできる社会にすることである。かつての教育現場では、親や先生の一方的な感情に任せた「怒鳴る」や、「暴力を振るう」ことが子供に対する教育の一つであった。しかしこうした行為は、人を従わせることはできても、人を教育することはできない。叱られた側の脳を萎縮させ、成長に悪影響が出たり、自己肯定感の低下につながる。私が小学生や中学生の頃にも時々感情に任せて怒鳴る人がいたが、誰もそんな人の話を真面目には聞かず、誰の成長にもつながっていない。怒鳴ることや暴力を振るうことは相手に一方的に思いを伝えているだけで、対話になっていない。それに反して「叱る」や「注意する」という行為は、相手との対話によって成り立っていると思う。相手から行動のわけを聞いて、どこがよくなかったのかどうすれば良かったのかを伝える。声を荒らげずとも相手に思いを伝えることはできるし、暴力を振るわずとも、誰かに何かをやらせることはできる。相手の気持ちを考えて叱る、注意するというような丁寧な叱り方ができる社会は誠実に叱るために必要だろう。
確かに、叱るという行為はとても労力を使う。しかし、「叱るということは、相手への一方通行な言葉ではなく、互いの対話である」という言葉のように、極端な叱り方は相手に対して何も伝えられていない。叱るのは相手を成長させるためにある。だから、私たちは誠実に叱るべきである。叱る側もそれを理解し、自分の行動を省みて対話するべきである。そうした行動の連鎖が、相手を思いやれるような社会の形成につながるだろう。私も今後先輩となる立場として、他者に対して理不尽に怒鳴りつけたり、不満をあたるのではなく他者を成長させられる誠実な言葉を用いて注意することを心がけたい。