叱ることについて
高2 とやさく(toyasaku)
2026年1月4日
作家である筆者は、若い頃に先輩である作家から、彼が書いた本の褒め言葉を気遣いで添えて、言葉の使い方を指摘されたことがある。若い時は自惚れが強かったからこそ指摘を受けてからの衝撃が強く、そして叱ってくれたことに対してありがたみを感じた。叱ることは教育の場で働く先生も覚悟がいることであるが、責任回避で放任することは望めない。
第一の方法としては、自分自身にも厳しくして生きていくことだ。叱る側の人間も自分に甘くしていた場合、叱る選択肢はその人にはないからである。叱られる側としては、自分に対しては甘い人の説教を聞きたくないだろう。私が部活に入ったばかりの頃、練習の休憩の間に部活には関係ない話を同期と話し、騒いでいて先輩に叱られたことがある。その先輩は休憩中も動作の確認などを自主的に練習していた人であったため、注意を受けた私たちは良い意味でもとても心に残るものがあった。部活内で最高学年になった今の私は、叱ってくださった先輩たちの思いを胸にして後輩と自分自身に対して厳しくして練習している。叱る内容が私もできていないということがないように、身を引き締めることは大切である。
第二の方法として、叱る、または叱られることは良いことだという認識を社会に広げることだ。叱る、叱られるという経験は、会社でも学校でも家庭でも相手の成長のためにあるものであると言っても過言ではない。また、叱ると怒るは違いがあり、感情の割合が大きい方が怒ることであり、客観的な視点で相手に対して思いやりがある方が叱ることである。この二つの違いを理解した上で他人を注意しなければならない。叱る、叱られる最中は心にくるものがあるが、長い目で見ると、この経験はあの時にして良かったと安心することが多い。最初に甘えられた人たちは、後半になるにつれて失敗を重ねやすく、一方で最初から厳しい環境にいた人たちは、若い頃にした間違いを二度とするまいという強い意志と安心できる慣れの感覚があるように感じる。孔子は、論語に「過ちて改むるに憚ることなかれ」という言葉を残した。失敗した弟子に対して間違いをはっきりと指摘し、恥ずかしくならずに行動を改めることを孔子は求めてきたのだろう。取り返しのつかない事態になる前に叱り、叱られた側は素直に行動を改めるという良い社会に近づくために必要なことがあるということを理解して過ごしていきたい。
確かに、過度に怒ったり、相手の人格を否定したりするようなことはかえって逆効果である。しかし、相手に対して注意を一切しないことも良くない。次の未来を継ぐ世代に対しても厳しい姿勢を見せることも大切だ。可愛い子には旅をさせよと言う。成長してほしいという思いやりがある相手には旅のように厳しい経験をさせる必要がある。叱ることは決して悪いことではない。相手を思いやる気持ちがあるからこそできる良い行動である。したがって、相手の欠点を指摘する時は、はっきりと叱るべきである。