本質的な問題に

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 要約:本質的な問題にどの点からどのように気付くかはその人が幼少期時代での家庭内の躾などによって決定づけられる。例えば幼い時から親に就寝時間を躾けられていたら、夜更かしすることなく順調に成長できる。やはりこの「躾システム」の中でも「教育」は必須である。なぜかというとこれを通し、子供は我慢し、自分の立場を自覚し成長する。筆者はこのような日々の自覚の積み重ねにより将来の判断力が身につくと唱える。昔の日本と違い、母親は手作り弁当を作らず、父親は仕事現場を見せず、ただただひたすらに外で稼ぐのみ。たとえどんなに貧しかろうと暖かい家族的な愛情のある家族があると人間的にも進化できるのだろう。

私は本質的な問題解明能力の育成には家庭での愛と躾は重要だと思う。一つ目の理由として「愛は躾の一貫」だからだ。たまに洋菓子店で売られている、外は固いチョココーティングで中は円やかなミルクチョコのように、「愛」と「躾」の二つの事柄はある意味一つの「商品」なのだ。「商品」という名だが、保護者が配給しているので「配給物」に近い存在だ。そのチョコをガボガボ我が子の口に押し込み、飲み込ませることで成長していく。これが「愛」だ。その過程の中でちゃんと咀嚼させるかさせないかで、その子の人柄も変わっていく。鵜呑みにしてしまったら、何もわからずただただ「いい子ぶっている」に過ぎない。だが、しっかりと噛むことにより、自分の身に沁み、「社会のスタンダード」というスタートラインに立てるのだと思う。話が少々脱線したが、要するに「噛む」か「鵜呑み」かを決めるのが「躾」である。そもそも無邪気でわがまま、自由気ままの子供を厳しく教育するのは非常に難しく、親から見ても辛いことではないか。だが、「愛しの子供にはいい大人になってほしい」という原動力の元、牙をむいて躾ける。この子供目線から見た「過酷な修行」を乗り超えた後に、成熟してノルマを理解している理想の自分が待っているのだ。人間の幼少期とは素晴らしいと思わないか。「躾」という非人間的な言葉を使わずに終えぬほど、やんちゃで可愛らしい子供たち。皆に無限の可能性が広がり、希望で満ちている瞳を持っている。実は私自身も幼稚園の頃は通常の二倍ほどのわんぱくな幼稚園児だった。だが、母親の懸命な躾のおかげで、自分なりの型を生成でき、今に至る。必ずしも量だけが子供にいいわけではなく、噛むことも必要なものである。

二つ目の理由として、0歳から10歳までちゃんとしていたら後はたぶん大丈夫だと思うからだ。「たぶん」という言葉を使ったのは非常に客観的だが、例外もあることを頭に入れといてほしい。話がそれたが、前段落でも少々触れたとおり、ある一定の期間をしっかりとやっていたら、私の言う「型」、その人の人格が形を形成し始め、そのうち不動のものになるのだと思う。当然のことだが、この期間を過ぎた後も「躾」は必須だが、本格的な物はこの期間内だと思う。実際そう思っているかわからないが、ベネッセ教育総合研究所によると東京都の小学生の76%ほどが習い事をやっているそうだ。これは親の躾が生んだ愛の第一形態であり、非常に恵まれたことだ。もう一つ革新的なデータが、小学校の時は7割以上を占めていた「習い事勢」は中学校に入ったら4割以下までに落ちてしまったのだ。もちろん習い事を辞めたのは人それぞれ事情はあるが、やめたのは事実だ。

このように、「愛はしつけの一環」、「0歳から10歳までちゃんとできていたら後は多分大丈夫」という理由から私は本質的な問題解明能力の育成には家庭での愛と躾は重要だと思う。確かに少なからず保護者からは「愛と躾は必要ない」という意見が来るかも知らない。それらの要素が幼少期に存在しなかったら、縛られる「ルール」が無く、素質や才能が爆発して素晴らしいのは事実だ。しかしそんなに唯一無二の感性を「社会ノルマ」がないという単純だが決定的な理由で、他者と共有できずに損をしてしまうかもしれない。日本に昔からあることわざ、「親の甘茶が独となる」で考えてみてくらないか。これは私が挙げた一つ目の理由に似ていて、「親が甘くしていたら子のためにはならず、時には躾という名の苦丁茶も飲ました方がいい」という意味で解釈した。私はまだ13歳で「子育て」という概念はほとんど考えないが、「親の愛」について非常に考えさせられた作文でした。