自分を持つということ

   高2 うた(aimee)  2026年2月3日

  日本に社会という言葉が持ち込まれたが、それは欧米におけるそれとは大いに異なるおのである。欧米の社会という言葉は本来個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。日本の個人という概念は訳語としてできたもので、欧米の個人とは違うものであった。日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまう、という世間との関係の中で生まれているもので、確固としたものではない。欧米と比べ、日本の個人が曖昧な存在であり、世間に流されやすいことは問題である。

 第一の原因として、同調を重んじる社会文化が存在することが挙げられる。「出る杭は打たれる」。このような価値観は幼少の頃から身に染みて感じてきた。私が小学校六年生つまりちょうど中学受験生の時、私はとにかく学校で友達と馴染めなかった。というのも、当時私の通っていた小学校において中学受験をする子は少なく、授業中にどうしても終わらなかった塾の宿題をやっていたり、放課後の時間を塾に費やす姿が不思議に思われていたからである。幼いながらにも、マイノリティーは省かれるのだなと感じた。幼い私にとって、幼少期のゲーム機は、社会人になってからの学歴と同じくらい価値があるものであった。また、日本が他国と比べ、治安がよいのも同調圧力が要因である。日本で赤信号を渡る人が少ない、電車でうるさい人が少ないのもこの例だ。これは日本に限った話ではないが、周りの人が身につけているものを身につけたいという同調の力によってできるのが、いわゆる流行である。

 第二の原因として、既存の基準に沿って評価される場面が多いからだ。科学研究では、本来は多様なテーマが必要なのに、論文が評価されやすい分野、例えば人工知能や遺伝子についてのテーマに研究者が一斉に集まる現象がある。研究者の評価は主に、どれだけその論文が他人に引用されたかによって決まることが多く、この現象はどうしようもないことであるが、今後の発展を考えると、これを憂わずにはいられない。また、受験や就職など、定まった基準に合わせなければならない場面が増えると、「正解を選ぶ力」は伸びても「自分の確固とした意見をもつ力」は育ちにくい。その結果、周囲の評価や世間の流れを判断材料にする傾向が強まり、結果世間に流されてしまうのだ。

 確かに、周りに合わせることは必要である。先に述べたように、日本の平和な社会が保たれているのはいわば同調圧力といわれるもののおかげであろう。また、スポーツにおいて、体格差がありながらも他国と互角に戦えていたり、むしろ強かったりするのは、日本がチームプレーにおいて他国よりも頭一つ抜けているのが理由である。しかし、世間にあわせることにおいては、世間の意見がいつも正しいとは限らないのである。もし多数派が偏見や誤情報に影響されていた場合、それに従う人が増えるほど間違いが拡大してしまう。また、周囲に合わせて行動すると、自分の選択を正当化しやすくなる。すると結果に対しての責任感が減り、社会全体として悪い方向に進むであろう。協調とは、他人任せにすることではなく、他人と協力することである。